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オタクの留学と某奨学金の愚痴

とあるTからはじまる日本代表プロジェクトの奨学金もらって留学に行った。
この奨学金をもらうとエバンジェリスト活動をしてくれとお願いされる。
留学生を増やしたいという国家プロジェクトの一貫としての奨学金なので、留学がいかに素晴らしいかを宣伝してくれという話だ。
別に義務じゃなくて、やらなくても奨学金はもらえるが、事後研修はサボると金がもらえない。
その二日間かけて行われる事後研修に行くと、三時間ぐらいかけて、自分の今後のエバンジェリスト活動の計画を立てて発表させられるのだ。
講演会を開く、イベントを企画する、などのエバンジェリスト活動の事例の乗った資料を渡され、自分なりのやり方を考えろと言われる。
そしてみんな従順に、母校の高校に説明会を開かせてもらえないかお願いしてみる、とか、自分なりの活動を計画するのだ。

グなんとかバルリーダーがどうのどうのとやかましく言っているが、奨学金という恩義に報いるため、見返りもなくタダ働きをすることに疑問の声を挙げることもなく従順に従うことは、果たして本当にグローなんとかリーダーにふさわしい姿なのか。
私にはどうにも、リーダーというより権力に逆らえずに腹を見せるわんこに見えて仕方がない。

二日間拘束される。
遅刻すればキレて授業放棄した小学校の先生みたいに叱られる。
画一化された自己啓発系ワークシートの空欄に己の分析を書かされ、発表させられ、ダメ出しをされる。
アイスブレイクの挨拶に「日本人って季節に感受性が高くていいね」なんて言い出す講師がいる。
留学で一皮剥けることを「かわいい女の子がこんなに立派になったんですよ」と表現する講師もいる。
これが君たちの語る「なんとかバルリーダー」を育てるための教育か、そうか。
日本の常識を捨てろと、海外にいるつもりで、引っ込み思案にならず大胆になれと口先では言いながら、講師には、さらけ出された個性を受け入れる度量はない。
本音でぶつかれ、という言葉の配慮のなさよ。
いつどんなときでも人間は本音を隠す権利がある。
本音は命令して言わせるものじゃない。

とまあ、さんざん某奨学金をボロクソには言ったが、同意できるところもある。
私も留学する人は増えてほしい。
特に、個人的には、オタクにこそ留学に行ってほしい。
留学は別に優秀な人たちやリア充のためだけのものじゃない。
語学留学や社会科見学的なものから単位取得や研究まで、様々な留学の仕方があり、その中には自分に合ったスタイルはあるだろうと思う。
自分に合った留学がわからないのなら、私も相談に乗るし、世の中にはお金を払うとその人にあった留学を探してくれるサービスもある。

例えば、オタク趣味や発達障害で自分を否定されて育ち、自分を肯定できない人たちに、留学に行ってほしい。
大抵の他の国は日本よりオタクにも発達障害にも優しい。
居心地がいいんじゃないかと思う。
留学に行ったって日本の現実は変わらないが、その日本の現実を見る自分の目が変わる。

それから、社会、政治に期待できない、どこの政党も支持しない、行政も学校も信じない、という人にも、海外に行ってほしい。
日本の行政や学校は特殊だ。
その例だけ見て、世界中どこでも社会や学校というものは常に自分を苦しめると思っているのなら、早計だと、
海外の例を見れば、その国のそれが信用できなかったとしても、少なくとも行政も学校も自分が見てきたものより本来ずっと多様で、一概には語れないということはわかるはずだと思う。

どんな動機であれ留学に興味を持った人が、学力、語学力、金銭を理由に諦めなくて済む社会になってほしいと思う。
学習支援や奨学金で解決できるものが、そのサポートにアクセスできないがゆえに諦めなければならないのは、とても悲しい。
行ってみたいと思った人が、誰でも安心して留学に行ける社会であってほしい。

残念ながらまだそういう社会ではないが、でも私のできる範囲で手伝いたいとは思ってる。
もしこれを読んでいて、学習支援や奨学金で悩んでる人、その他留学に興味はあるけど漠然と不安で踏み切れない人がいたら、一緒に解決法を探してみるので、相談してほしい。
特に奨学金は、日本政府、地方自治体、民間、受け入れ先大学、受け入れ先政府と様々な形式、条件がある上、宣伝する気の足りてない奨学金が多くて、探すのが難しい。
留学に行った先輩方からの口伝てでしか見つけにくい情報も色々あるし、留学に行きたい人、行った人同士の人脈というのはなかなかお互い役に立つことが多い。
もし必要であれば私が紹介できる人の範囲ならいくらでも紹介しよう。
奨学金や学習サポート以外にも、生活面でも助け合うことができる。

ちなみに、悔しいことにトなんとかの奨学金は、留学内容の幅の広さ、額面共にトップクラスだ。
研修や手続きはほんとに最悪だが、なんとかタテしか選択肢がない場面は多いと思う。
2020年にはトなんとかテはお金が足りなくて終了する予定らしいので、行くなら今のうちだ。

ボロクソ言っといてなんだかんだ宣伝するというツンデレみたいなムーブをしてしまったが、トビなんとかが嫌いなのは本当だ。
留学に行って圧倒的成長を!!!みたいな押し付けとハイテンションはノーサンキュー。
留学に行くべきか、そうでないか、というのは各々の価値観に任されるべきだ。
私は、ただ、留学に行くのが当たり前の社会になってほしい。
特別なものじゃなく、当たり前に日常の中にあって、出身地域や家庭を問わずどんな人でも、ふと行ってみたいと思ったら気軽に行ける、そんな存在であってほしい。
行きたい人は行って、特別なことでもなんでもなくああ、行ったんだ、と、言われ、行かない人は行かない人でそれも当たり前で、ああ、行ってないんだ、と当たり前みたいに受け入れられる、そういうものであってほしい。
行きたい人がみんな留学に行けること、すべての人が留学についての十分な情報を知った上で留学に行くべきかどうかを判断できることが大切だと思う。

ブサイクだった私と美人ごっこをやめた私

一般に女の子は男の子よりお洒落に対する目覚めが早く、小さいときから自分で服をえり好みする、なんて言われるが、一応女の子である私のお洒落への目覚めは相当に遅かった。
私が自分の見た目というものを自分でコントロールしようという発想を得たのは、中学三年ではじめて恋をしてからだった。
どうでもいいがその恋のお相手は女の子であるあたり子供の頃の私はゴーイングマイウェイをぶっ飛ばしている。
とにかく、それまで私はド田舎のアホな中学生男子キャラと同じぐらい、自分の見た目と言うものを、まともに考えずに漠然と醜いものだとしか思っていなかった。

私は毛が多い体質で、髪の毛も恐ろしく多いが、手入れをしないと腕も足も眉も女子のわりには結構もさもさになる。
びっくりするほどきれいな一重で目も小さい。
当時は思春期にありがちな話でニキビも多かった。
髪型もよくわからないまま美容師さんに手間のかからないようにしてください、と、結べる長さのストレートに切ってもらうだけで、前髪もないワンレンだった。
あと、目が悪くて、縁が細くて楕円形の金属の、とにかくダサい眼鏡をかけていた。
そんなわけで、ふと、見た目と言うものがあることに気が付いたときには、私は1周2周どころか、到底追いつけないんじゃないか、というぐらい、おしゃれというものとの付き合い方で他の人に出遅れていた。
他の人はみんな足が細く見える紺ソックスなのに、自分一人だけ白ソックスだということに、本気で2年間気が付いていなかったのだ。
きっと多くの人は気が付かないってどういうこと?と思うだろうなということはわかるが、ほんとのほんとに靴下の色なんて意識に上ったことがなくて、ただ親に出されたものを履いているだけだったのだ。

私は小学生の頃から、男性向け女性向けを問わずライトノベルスを読み漁る子供だった。
今でも覚えているのは、とらドラで、モデルをやっているスタイルいいという設定のキャラが自分の腹の肉をつまめるということに気が付き、ショックを受けてダイエットをするというエピソードだ。
今なら、男性と女性では健康に必要な体脂肪が全く異なり、女性は20%以上必要だが、男性は一桁でも問題ないことも、
この小説を書いた男性がそういった女性の体脂肪事情に関する医学的知識は持っていないだろうことも知っている。
しかし、おしゃれや見た目というものをまったく気にしてこなかった私にとっては「つまめたらデブなんだ」としか思えなかった。

これは見た目とは関係ない話だが、子供の頃の私は常識のなさも今と比較にならないほどひどく、
小学生の頃からときどき奇行をしてはヒソヒソとなにあの子、と言われていた子供でもあった。
そんなわけで、私の当時の自己認識は、「顔もキモいし言動もキモいしデブ」であったのだ。

自分の見た目が他の人と違う、不細工である、と認識してから、私はそれはもういろいろ頑張った。
ムダ毛の処理は親もやってないから誰も教えてくれないし、剃ったら伸びてきたときにチクチクして剃ったことがバレてしまうと思って、
ネットで調べて豆乳を塗ると毛が薄くなるだとかいう怪しげなうわさを聞いて試してみたりした。
結局は大して効果を感じられなくて勇気をもって剃ることにしたのだが、
はじめて剃ったときは、不細工のくせにいっちょまえに色気づいて、目が腐る、と言われやしないか怖かった。

アイプチなんかで二重にする方法もあるのだと、その好きになった人に教えてもらって自分でいろいろ試した。
結局アイプチの類は全部まぶたがかぶれてしまって、それでも癖付けできないかとしばらく頑張っていたけど、見かねた親に止められて、
シールを貼る方法などいろいろ試した末、最終的に今はつけまを一重の折れ癖の上に被せるように貼ることで二重にしている。

髪型は、そのころに新しくできた美容院の一番人気の人に、フェイスラインを隠す小顔効果のある女の子らしい髪型にしてもらった。
美容師さんにかわいくなったねとおだてられて、私でもかわいくなれるんだ、と勇気をもらったのを覚えている。
眼鏡もやめてコンタクトにした。
スタイルよく見せるファッションも研究したし、痩せる努力もしてみた。
結局私はあまり体重変動のない体質で、大して太りも痩せもしなかったけど。

アニメとかで、子供の頃不細工でいじめられていた女の子が、大人になったらめっちゃ美人になって帰ってきた、みたいな話がよくあるが、
私は自分を、「私はこれなんだよな」と思っていた。
実際客観的に見てアニメほどの変化があったかは定かではないが、高校のクラスメートにはわざと噂話を聞こえるように大きな声でしゃべる趣味の悪い男子がいて、
高3のころには、そいつが私のことをすごい変わった、かわいくなったと言っていたのが聞こえた。

大学からの知り合いは、私のこういう側面を知らないと思う。
ファッションもパンツメインからスカートメインに変えたというのもあるけど、
周囲の層が、文系も理系もごった煮な都内のエリート私服高校から、田舎の国立大学の冴えない理系学部、理系オタククラブになったから、
相対的に大学での私のキャラは、こんな冴えないオタクの集まりに似つかわしくないキラキラした文系っぽい女子、だったはずだ。
大学からの知り合いは変わろうとする前や変わろうとしている最中の私のイタさを見てない。
ある程度スタイルが確立して、Cancam女子ってこんなもんなんでしょ、というのをわかってきている私しか彼らは見てない。

結局見た目が変わろうと私の卑屈さは変わりはしなかった。
生きているだけで周りの人に汚いものを見せて迷惑をかけている、という意識から、
外側だけきれいな包装で包んだけど、少しでも漏れたらバレてしまうという恐怖に変わっただけだった。
なにがバレるのかの正体はわからないが、とにかく私の本質は人間にとってヘドロのようなものなのだと思い込んでいて、
パッと見きれいな包装からヘドロが出てきたら、さぞショックさろう、裏切られたと思うだろう、最初からヘドロよりよっぽどひどいだろう、と思っていた。

こうして思い出しながら書いていると、そういえば私って昔そうだった、と懐かしい気持ちになる。
結局自分はヘドロだという意識を捨てるために必要だったのは、見た目を変えることではなく、考え方を変えることだった。

最近の私のテーマは、男でも女でもない私自身として生きていくことだ。
ファッションもそれに合わせて、中性的なものにした。
髪型も後頭部を刈り上げるベリーショートにしてもらったし、コンタクトをやめて、中性的な眼鏡を作り直した。
自分の見た目は他人を楽しませるためのものじゃなくて自分を表現するためのものだ、という思いを主張するために、わざと浮くような奇抜な服を着たりする。
TPOをまったく無視していいとは思わないし、それで点数にマイナスをつけられたらいやだから必要なときはドレスコードに従うが、
基本的には自分の体は親のものでも他人の物でもなくて自分のものだし、自分の見た目も自分のものだ。
ずっと、誠実に見えるメイクを学んできたが、最近はもっと純粋に自分自身自分が好きだと思える顔になるのを楽しんでいる。
私の趣味は厨二臭いので、パープルのベースで顔色が悪いような青白い肌色にして、わざとくまのように下まぶたに暗い紫のアイシャドウをのせるのだ。
そうすると、自分がダークヒーローにでもなったかのようで、すごくテンションが上がる。
見た目は昔の方が健康的美人方向で、今の方がメンヘラに見えると思うが、思想的には随分健全になったと思う。
自分の見た目は、自分のためのものだ。
パソコンのデスクトップ画像が自分が見て幸せになれるものがいい。
デスクの上には、見ただけで幸福になれるフィギュアが並んでいてほしい。
そして鏡に映る自分も自分でぐっとくる見た目であってほしい。
そんな風に、シンプルに生きよう。

自分の好きな格好をするという尊厳

髪を切った。
長らく、地元の美容院で髪を切ってもらっていて、私はずっと短くしたい、短くしたい、と言っていたのだけれど、
担当の美容師さんに似合わないから、と言われて、ずっとボブからセミロングの間を行き来する量産型女子大生になっていた。

量産型女子大生 - Google 検索

その人はおしゃれなどなにも知らなかった高校生の私をそこそこ社会に出せる見た目に仕立て上げてくれた恩師ではあるし、
恨んでいるわけではないのだけれど、コスプレをして、ウィッグを被るときに髪が邪魔だなと思って、
あと、「ななちゃんはかっこよくなるのは無理でしょ」と笑われて、
この人とこのまま付き合ってたら自分の自尊心が削り取られる気がして、美容師を変えることにした。

シンガポールの人たちは、町中を結構カジュアルな恰好で出歩いているし、
インド系とかマレー系の人たちがそれぞれの民族衣装で普通に街を歩いているし、
なんだから私も、民族衣装とかコスプレとか変な格好で出歩いてても大丈夫なんじゃないか、って謎の勇気が出て、
最初美容師を変えたらワンレンボブとかにしようと思ってたけど、
もっと思いっきり短くしてもいいんじゃないかって気分になってきた。

ほんとは髪を切るのはもっと先にしようと思ってたけど、シンガポールから帰国して、
髪を乾かして寝ないと風邪をひきそうな気温で、髪をまともに乾かすようになったら、
髪がなかなか乾かなくて、どうせ切るなら早く切ったほうが乾くのも早そうで合理的に思えたので、
思い立ったが吉日、とその翌日予約をし、昨日切ってきた。

背が低いから、とか、口が小さいから、とか、髪が直毛すぎるから、とか、気になることはいっぱいあったし、
前の美容師さんだけじゃなくてお母さんにも、あの人が似合わないって言うなら似合わないんでしょ、やめとけば、って言われてたけど、
やってみて似合わないことを自分で確認しないと納得できないから、と
「男か女かわからないぐらいバッサリ切ってください」とお願いして、切ってもらった。

バンドマンが顔に前髪がかかってて振り乱して歌って踊るみたいな、オタクっぽい感じにしたい、
とかいう謎の私の説明を、美容師さんはちゃんと理解して、バッサリ切ってくれた。
多分、私の髪が多くて直毛だからだと思うけど、
バンドマンよりだいぶきちんときれいな感じの、宝石の国のアンタークチサイトみたいな髪型になった。

キャラクター -TVアニメ『宝石の国』公式サイト-

上手に切ってくれたおかげで、別にちぐはぐ感もなく、美容師さんも会う人もみんな、
(お世辞かもしれないけど)似合うって言ってくれて、なんとなく、自分も「最初から私はこっちだったんだ」みたいな気分になってきた。

多分はじめてではないんだろうけど、はじめて、周りになじむためとか、怒られないためじゃなくて、
自分らしくあるために自分で自分の見た目を選択した、って気がしてきて、
ようやく大人になれたような、
誰に保証してもらわなくても、自分で自分の生き方を選んでいける自信に満たされたような気がした。

女性は失恋すると髪を切る、というの、まったくの都市伝説だと思っていたけど、
愛されるために自分を押し込めていた女性という役割の型を、失恋を期にとっぱらうために、
髪を切る、ということはあるのかもしれないな、と思った。

多分、今の日本の社会は、普通に育つと、たくさんのドレスコードの呪縛をかけられて生きることになる。
私は、子供のころから親に、ノースリーブを着ると寒いでしょ、と袖のある服を着せられ、
チェックのシャツに花柄のスカートをはくと、柄に柄は変だよ、と着替えさせられた。

でも、そんなことにさほど意味なんてないでしょう。
私は、白が好きだから、全身白い服が着たい。
白いセーターに白いスカートをはいたり、白いブラウスに白いズボンをはいたりしたい。
大学に白いドレスで通学したい。
これからはそういう恰好をしていこうと思う。
幸い、今の私の周囲の環境はそれほどファッションチェックにうるさい人はいないし、
流石にちょっと変って思われるかもしれないけど、
多分だからって話さないとか言い出すひとはいないし、これは、私が私であるために
私が誰かの操り人形ではなく、私の人生を生きていると感じるために、きっと大切なことだ。

私の親が無理解なわけではないと思う。
この呪縛は、具体的に誰ってこともない社会全体から、具体的に誰ってこともない全ての人にかけられた呪いで、
別に明確な加害者も被害者もいない。
ただ、これからの私たちが自由に生きていくために、次の世代が自分の尊厳を大切にできるように育てるために、
もうそういう暗黙のドレスコードは全部やめにしないか。

Googleインターンシップでの話で、Googleドレスコードは、何かを着ていること、であり、
下着を着ていれば何かは着ているので十分なのだろう、という話を聞いた。
Quote by Eric Schmidt: “Google dress code was: "You must wear something".” 実際下着で出勤している人はみなかったけど、
私がスカートでいすの上でたてひざをたててパンツ丸見えでも特に誰もなにも言わなかったし、
視線すら感じなかったので、ほんとに下着で出勤してくる人がいても誰もなにも言わなくてもおかしくないと思う。
ただ、googleに着くまでの公道を歩いているときはその所在地の法律や条例に縛られるので、
現実的には会社についてからわざわざ下着姿に着替える必要があるかもしれないが。

Googleインターンに行ったときに、私ははじめて、
好きな服を着ることがこんなにも尊厳に密接していたということを理解した。
もっとファッションにこだわりのある人たちはもっと若いころから知っていたのかもしれないけど、
自分の格好に無頓着だった私は、このときようやく、自分が今までいかに束縛されていたかを自覚した。
ファッションに無頓着な私でもそうなんだから、
きっと、自覚していなくても、ほとんどの人にとって服装を自由に選択できることってとても大切だと思う。

髪の黒染め強要のニュースは、私にはとても痛ましく見える。
黒染めを強要されることで学生たちの大切な部分が、傷ついて悲鳴を上げているのが聞こえるような気がする。
性別にも、年齢にも、体型にも関わらず、すべての人が自分の着たい服が着れますように。
もっと各ファッションブランドがサイズのバリエーションを増やしてくれますように。
早く学校の制服が選択制になりますように。

フェミニズムが男性に負担を強いる問題について

のぶみの「あたしおかあさんだから」の騒動をご存知だろうか。 本題と逸れるので割愛したいところだけど、人によっては全く異なった認識をしているかもしれないので、私の認識を共有するためにここでも流れを簡単に説明しておこう。

母親に恵まれず、「おかあさん」という概念に対するコンプレックスを解消できないまま大人になった男性絵本作家のぶみ。
「おかあさん」を過度に美化し高いハードルを要求する絵本を描き続けてきたが、ついにたくさんの子どもとお母さんの目に触れるだいすけおにいさんの歌として、その「おかあさん」に対する歪んだイメージ像を歌詞に乗せて発信するに至る。
「あたしおかあさんだから」と繰り返し、自分の人生を楽しんでいた若い女性が「おかあさん」になるために自分の楽しみを抑圧していく様を描いたその歌詞は、背景を知らなかった私などには、一見とても美しく芸術的に残酷なバッドエンドの物語に見えるほどだった。
しかし、前々からのぶみの思想を知り、問題視していた層によると、本人はハッピーエンド、美談だと思って描いているらしく、NHKというメディアによって、「おかあさん」に高すぎるハードルを要求する思想が、おかあさんや子供たちにバラ撒かれる、と危惧して炎上。
母親にかかる過度のプレッシャーが、虐待などを引き起こす可能性も指摘されている。

という状況。
もちろんこれは私の認識している範囲では、という話であり、人の数だけ見方があると思うけど、この記事はこの見方を前提に書かれている。
今回の本題は、のぶみへの批判に限らず、最近度々目にする「父親が育児を負担してないのはおかしい」という主張について、だ。

母親ばかりが育児を負担するのはおかしい。
父親も母親に甘えてあぐらをかいて負担を押し付けていないで育児に参加するべきだ。
その気持ちはごもっともではある。

しかし、私はそこに妙にひっかかるものを感じずにはいられない。
最近は「家事を頑張っても半分は負担してないから妻には褒めてもらえない。家事のために仕事を早退すると、理解のない上司からは冷めた目で見られる。板挟みで辛い。女ばかり家事を負担するのがよくないことはわかっているが、自分の中に染み付いた男尊女卑思想がどうしても時折鎌首をもたげ、モヤモヤした気持ちを抱えることになる」といったような趣旨の男性の発言をよく見る。
フェミニズムの理想は、誰も性別の役割に縛られない、プレッシャーを感じない、自由で幸福な社会であるはずだ。
男性であっても、父親という役割に縛られストレスを強いられるのは、フェミニズムの目指すべき社会とは私は思えない。
少なくとも私の思うフェミニズムはそうだ。

以前見たツイートで、「学校の体育の授業の前後、男子は教室で着替えて女子が更衣室まで行かなければならない問題が学級の議題に上がった際に、本来は学校が男女両方に更衣室を用意すべきであると指摘した生徒がいた」というものがある。
そのツイートの結末は、よって学校の責任なので女子は授業に遅刻しても甘く見る、と交渉してもぎとったというものだったけど。
この話もそうではないだろうか。

本来、社会が、父親も母親も育児に縛られず自分自身の自由な人生を生きられるようサポートするべきなのではないか。
保育園であったり、ベビーシッターであったり、会社で子供を受け入れるシステムであったり。

もちろん、女性にだけ家事や育児の負担を強いてきたことを棚に上げて、男性に育児を強いることを責めるのはアンフェアだ。
父親に育児の半分を要求することがおかしかったとしても、母親に育児の大半を要求することは絶対にもっとおかしい。
父親に育児を要求することの問題が追求されるより先に、母親に育児が要求されることの問題が追求されるべきだ。

しかし、父親と母親育児を半分ずつ負担しましょうね、というのも現実との妥協でしかなく、理想ではない、ということに目を向けなくては、幸福な社会というのは築けないのではないだろうか。
母親はもちろん、父親も育児から開放されるのが理想で、それがすぐには実現できないゆえに、現実との妥協として、父親も半分負担してくれ、という主張が自然なのではないだろうか。

そう思えば、前述した、フェミニズムミソジニーの板挟みで苦しむ男性たちについても、君たちの敵はフェミニズムではない、と、育児の負担をサポートしてくれない社会であると、その行き場のないストレスは、育児の支援をしない会社と保育園不足を解消しようとしない政府に向けろ、という解答を出すことができるし、それは私にはいかにも筋が通っているように思える。

私の個人的な思い入れの話になってしまうが、私の母は典型的なその世代の母親で、私を出産したあと仕事をやめ、私と家族のために尽くした。
私にはそれがプレッシャーでならなくて、実家に住んでいた頃は、母親の「私はこんなにも理想の母親なのに、なんであなたは」という眼差しに随分追い詰められた。

真っ先に、母親に母親としての役割を求めることをやめよう。
そして、それと同様に、父親にも父親の役割を求めることをやめよう。
子育ては、親は自分がしたい分だけして、負担に感じる部分は社会にアウトソーシングする。
血縁である親だからこそ与えられるものがある、なんて非科学的な発想は捨ててしまえ。
負担が、誰か一人にかかりすぎてしまわないように、家族ひとつひとつの能力とニーズに合わせて、柔軟に社会が負担を分散して吸収する。
そんな社会のほうが、きっと子供ものびのびと健全に自尊心を育める。

「^^」おじさんども、心して聞きなさい。これがJDの本音だ

今回は終始ただの愚痴なんだけども。
こういうことを言ってくるおじさんが結構いる。

^^おじさん「ななちゃん、久しぶり。元気?^^」
私「おかげさまで」
おじさん「最近どう?春休みはどこかいくの?」
私「いつも通りです。今度はシンガポールに留学に行きますよ」
おじさん「どのぐらいいくの?」
私「1月から3月の3か月です」
おじさん「へえ、長いね!彼氏寂しがるんじゃない?」
私「寂しがってますね」
おじさん「いい彼氏だね。大切にしなよ^^」
私「そうします」
おじさん「話してくれてありがとう、じゃあ気をつけて行ってきてね^^」
私「ありがとうございます」

この手の会話、もう何回したかわからない。
正直同じ会話を二回させられるだけでこっちとしてはうんざりだ。
「ありがとう」と言われたから好感触、とか思われていそうな気がする。
こちらとしては、「言われた」ではなく「言わせた」だろうが、という印象なんだけど。

こういうおじさんたちは、大抵、一年に1~3回ぐらいの頻度で連絡を入れてきて、彼氏がいることを確認するとスッと話題を切る。
身に覚えのある人もいるんじゃなかろうか。
これで、付き合えると本気で思っているのか、私ははなはだ疑問である。
身に覚えのある方々、心して聞いてほしい。

本人はうまく隠しているつもりなのかもしれないが、「彼氏がいるなら用はないや。別れたらアタックしよう」という魂胆はバレバレである。
まっとうなら、彼氏というプライバシーにこっちから話題も出してないのに軽率に踏み込んできたりなどしない。
それをわざわざデリカシーもなくずけずけと踏み込んできた上、彼氏と円満とわかるとすぐに会話を切る。
こんな会話は「お前など、付き合えるという報酬がないならわざわざ時間を割くような価値がないも同然だ」と言われているに等しい。
そんな態度が見え透いている人と、たとえ彼氏と別れたとして、付き合いたいと思うと思っているのか。
別に、「^^」おじさんたちと連絡を取らずとも、私の身の回りには彼氏以外にもたくさん友達がいる。
彼らは日々、私に新しい世界を見せてくれるし、思考が行き詰ったときに打開のきっかけを与えてくれるし、不安になったとき大丈夫だと言い聞かせて支えてくれる。
私も彼らが困っていれば一緒にどう打開するか考える。
そうやって、お互いに少しずつ信頼を積み重ねた友達がいるのだ。
たとえ彼氏と別れたとして、どうしてわざわざ彼氏のいる私のことを価値がないと断じて捨てた「^^」おじさんを選ぶことがあろうか。

ステータスが目当てで相手が信頼できるかは問わないという人同士ならそれでうまくいくのだろう。
社会制度の恩恵を受けるための、恋愛を伴わない形式的な結婚も私は否定しない。
ただ、そうであればそうだと最初から相手に開示しておくのが誠実ではないだろうか。
口先では恋愛の形を取りながら、相手への敬意を伴わずに利用しようとするのは、誠実さに欠ける。
そんなんなら、「婚活してるんだ。だから、別れたらアプローチするから教えて」と言われた方が「私は婚活してないから」「私も婚活はじめたらね」と断れるだけまだマシだ、という話だ。
その方がおじさん側も脈なしの相手に無駄に時間を使わなくてすむし、合理的じゃないか。

女は犬猫とちがって、同じ人間だし、同じ人間なりの意思と知性があり、言語を話す。
特別男と比べて知性が劣るわけではなく、男と同じぐらい馬鹿で、男と同じぐらい賢い。
立場を利用せず、相手の意思を尊重しようという姿勢をもって誠実に誘えば、yesであれnoであれ誠実な答えが返ってくる。
たとえその答えがnoだったとしても、そのnoに誠実に答えることが、信頼を一歩深めることに繋がるはずだ。

恋愛をよく狩りにたとえることがあるけど、私はあれに賛同できない。
「お持ち帰り」にしろ「落とす」にしろ、相手の意思を自分の思い通りに操作できるなんて思い上がりも甚だしい。
騙して得た契約はいつか破綻する。
「セックスしませんか」「付き合いませんか」「結婚しませんか」と、最初から懇切丁寧に条件を開示して、合意の上で契約するべきだ。
きっとその方がお互い幸せな関係になるだろう。

ギルドで姫をしていたネトゲ廃人中学生の話

最近WHOがゲーム依存を病気認定したとかなんとかの話題で思い出したっていうだけの話で、別にWHOの決定に賛成とか反対だとかいう話ではないんだけど、ネトゲ廃人の女子中学生が課金アイテムを貢がせて姫をしていたなんて話はちょっと一般人には物珍しくうつるかな、と思って書くことにしてみた。
私は物語を盛り上げるようなセンスはなく、ただ淡々とあった事実を書いていくだけなので、読み物としてはまったく面白くないと思う。
物珍しくて興味深いなと思った人だけ読んでくれればいい。
なにを感じるのも読む人の自由だと思うので、それぞれ好きに読んでいて構わないけど、願わくば、姫だとかネトゲ廃人だとか独り歩きしてしまった言葉の真相がどういったものであるのか、なにそれ怖いと蓋をしてしまわずに直視するきっかけになってくれればうれしいなと思う。

私は小学校高学年のころからネトゲライトノベルが好きだったので、ファミ通文庫の出しているモンスターハンターシリーズも読んだし、それをきっかけにモンスターハンターフロンティア(MHF)というネトゲに手を出したりもしていた。
当時私は中学一年生で、月額3000円近い課金には手を出せずに、レベルが2から上がらない無料お試しプランでログインし、もっぱらゲームはプレイせずに猟団部屋(ギルドルームに相当する概念)で駄弁るばかりだった。
この頃から既に、男にモテる女の話し方の特徴7つ、みたいな感じのいろいろを読み漁り、聞き上手、誉め上手を目指して会話をしていた気がする。
なんでそんなことをしようと思ったのかは覚えてはいないけど、少なくとも金銭目当てではなかったことは確かだ。
相手に喜んでほしかったのか、他人に求められることで自分には価値があると安心したかったのかは、もう忘れてしまった。
そこで出会ったN氏が私のオタサーの姫プレイの最初の被害者となる。
N氏は20代後半だったと記憶しているが、いたく私をかわいがり、「MHFにも飽きてきた。MoEというネトゲに移動するが、ついてこないか」と声をかけた。
このMaster of Epicというネトゲが私の人生に一生残る杭を突き刺したゲームである。

当時はメイプルストーリーとかノーステイルとかそんな感じのかわいらしいゲームが流行っていたけれども、MoEはリアル調3Dのゲームで、自由度が恐ろしく高いゲームだった。
ヒル型の便器のスカートとか、たい焼きの被り物とか、わけのわからん変態的装備がいっぱいある、カオスに満ち溢れた世界で、私はそこがいたく気に入り、適当にその辺でたむろしていたフェローシップ(ギルドに相当する概念。FS)に入り、そのコミュニティに居ついた。
N氏は私に「効率のいいゲーム内通貨の稼ぎ方を見つけた。それには自分ともう一人必要だ。必要なアイテム等はこちらで用意するから、バイトしないか。報酬にゲーム内通貨でオークションで課金アイテムを買ってやる」と話をもちかけ、それからしばらく私はFSの人たちと遊ぶ傍ら、N氏の元でバイトをしていた。
そのころから私はややN氏に合わないという感覚を抱きはじめていて、断るのが怖かったから受け入れたものの、N氏との関係はFSメンバーには教えていなかった。
N氏の見つけた稼ぎ方は実際効率がよく、私がもらっていた分け前は稼ぎの半分弱程度で、不当に大量の報酬を受け取っていたわけではないが、FSの人たちが、中学生が自分で買ったとは思えない課金装備をそろえていく様をどう思っていたのかはわからない。
N氏とは、しばらくして「最近冷たくないか」と文句を言われたタイミングで、勇気を出して「私はFSの人たちと遊びたい。あなたにはついていかない」と告げた。
当時しばらくは、ストーカーされたらどうしよう、なんて怖かったりもしたけれど、それ以来連絡はまったくなくなった。

私はMoEでFSの人たちと遊ぶのにドハマりし、学校が終わると最速で帰って帰るなりすぐパソコンの電源を入れ、夕ご飯もお風呂も最低限で済ませ、夜2時3時ぐらいまでプレイしていた。
学校での私は変人扱いで、後に「中学の頃クラスで一番最初に話しかけたの俺だったよな?な?あの頃のお前、休み時間は本読んでるし、終わるとすぐ帰っちゃうし、誰とも話さないから誰も話しかけられなくて、その中で話しかけるの勇気いったんだぜー」なんて言われることになる。
話しかけられたときのことはまったく覚えてない。
私の自己認識では、「ネットに友だちがいるからリアルには友達がいなくてもいい。私は同世代より大人だから同級生とは話が合わない。大人の方が話が合う」という自己認識になっていた。
初音ミクの「本当の自分」という曲の「友達は電子でできた淡く光る箱庭の中 離れやすく近づきやすい 目障りなら突き放せばいい だけど気づいてる 満たされていない存在 こんな自分を捨てて生まれ変わりたいんでしょう」という歌詞に、そんなものは欺瞞だ、ネットの友達は所詮仮初、お前は一人ぼっちなのが現実だ、と突き付けられた気がして辛かった。

FSでの私は、子供なのに子供らしからぬ話題を話す面白い子、自我が強くて誰も逆らえないお姫様、だったのだと思う。
FSマスターと旧知の友人であるFSメンバー、M氏が「彼の友人である俺にはマスターが君をお姫様扱いしているのがわかるよ」と言っていた。
私が「ザブールがいい」と言えばその晩の狩りの対象はキングサブールになり、「パレスに行きたい」と言えば狩場はタルタロッサパレスになった。
一度「この人数では厳しい」と反対されたときに、多数決を取り、反対が多かったため諦めたら、「まさか諦めるなんて。鶴の一声で反対を押し切って行くことになるのかと思った」と驚かれた。
私自身は当時から不器用で察しが悪いながらも精一杯みんなの幸せを考える人間であることは変わっていないと思うのだけれど、私の人柄がどうであるか以上に周囲がおじさんだらけのコミュニティに単身飛び込んできた女子中学生をお姫様扱いしていたのだと思う。

当時の私は、自分の顔のことを写真に写したらカメラが腐るぐらい不細工だと思っていたから、絶対にオフ会、ビデオ通話、写メ交換等の顔がバレるものは避けていた。
「学校で顔を教えてはいけないって言われているから」という言い訳はとても便利だった。
それでも、相手はかわいい子が画面の向こうで相手してくれてると期待しているはずなのに、それを騙している、という罪悪感と、だからこそ顔を見せないで相手の夢を壊さないでいることが私の責務だという意識があった。
当時の私が性的な肉体関係についてどれだけ理解していたのかもう覚えてない。
下手したら、子供の作り方をyoutubeで見たナメクジの交尾しか知らないぐらいだったかもしれない。
ナメクジのアレを人間同士でやるとは一体どういうことなんだ?と疑問に思っていた時期はしばらくあった。
あるいは、ネトゲ廃人をやっていた期間に、セックスという概念を学んだかもしれない。
そんな気がする。
とにかく、少なくとも、男は会って触れることを望んでいる、私のことをスクリーン越しに抱きしめたいと思っている、私はそれをわかっていて胡麻化して回避している、騙している、という意識はあった。
通話はしたことはある。
かわいい声だ、女の子の声だ、とちやほやされて、私は愛されていると安心し、ネカマではなくてほんとに女子中学生だと証明したと、会うつもりがないのにその気があるふりをしている罪を少し償った気持ちになった。

FSメンバーみんなでわいわい狩りに行くのも好きだったが、まだ日中の人の少ないときや、みんなが寝静まった深夜に、メンバーの誰かと二人っきりでMoEの広いマップをのんびりしゃべりながら旅するのも好きだった。
キャラクターを相手のすぐ隣に座らせて、相手を褒めたり、「ぎゅー」なんてスキンシップを連想させる効果音で会話していると、相手が自分に気があるのではないかと誤解するとわかってあえてやっていた。
空気を読めない、気づかないうちにすぐに人を傷つけてしまう私には、女であること以外他人にとって価値がないと思っていたし、そうして気をひかなければ私の居場所はなくなると思っていた。
M氏には一度告白され、その場では断ったらなにをされるかわからないと思って付き合ったが、後になって大切なものであったはずの異性との付き合いがこんなネットの繋がりだけしかない、頭の鈍い相手とという形で汚されていくことに耐えられなくなって、一週間と立たないうちに「やっぱり付き合うっていうのがピンとこない」という理由でフった。
M氏は私を父が娘を愛するように愛していると言っていたし、それは嘘ではないだろうけど、もし実際に会ってカラオケボックスかなんかで二人きりになれば、彼は「据え膳」と手の平を返し、キスをして、その先も要求してきたのではないだろうかと、思わないでもない。
M氏は、5年ぐらい私の誕生日になるたびにメールをしてきたが、最近は来なくなった。
Facebookに登録したときに友だちですか?のサジェストに彼が出てきたことには驚いたし、怖かったが、彼はFacebookでは連絡を取ってこなかった。
私のこともほとんど思い出さないぐらい、彼なりの幸せへの道を歩んでいるといいなと思う。

O君という小学生荒らしがFSに参加し、荒らしすぎてマスターに追い出される事件があった。
私はO君の姿にどこにも居場所のない自分を重ね、その後しばらく、マスターから逃げ回り、「追い出してほしくなかった。彼だっていい人かもしれないのに」と訴えたが、マスターには私がなににショックを受けたのか伝わってないようだった。

その後、L氏と二人でバジリスクキングを狩りに行くことが多くなった。
L氏との狩りは効率がよく、連携もスムーズで、他の男性とふたりっきりの時みたいに接待を要求される感覚がなく、居心地がよかった。
L氏が突然ログインしなくなって、私もMoEをやめた。
後にskypeで連絡がとれ、彼が引っ越しでインターネットへのアクセスができなかったことを知った。
L氏とはその後高校生になってから一度ふたりっきりでオフで会ってみたが、L氏は相変わらず私になにも要求せず、ごく平和に一緒に遊んで、ごく平和に解散した。
私の方もその頃には、ネトゲで強いぐらいがなんぼのもんじゃい、そんなんでかっこつける人間なんて底が知れてる、というような気持ちになっていたので、その後恋愛に発展することはなく私とL氏の関係は終わった。

思い出したままにエピソードを連ねてみたけど、私のネトゲの姫歴はこんな感じだ。
もしかしたら忘れている出来事もいろいろあるかもしれないけど。
姫被害者は、私にとってはいつストーカーとして復讐に来るかわからない恐怖の対象で、吸い尽くしてポイと忘れるなんて雑な扱いができる相手ではない。
定型発達とのコミュニケーションが噛み合わないアスペルガーだった私には、これしか居場所を作る方法はわからなかったから、反省はしても後悔はしてないけど、強いて言うとすれば、発達障害の小学生、中学生が友達を作れるような支援がもっとしっかりしていれば私もあの人たちも傷つかずに済んだのに、とは思う。
日本の公立学校がそんな支援をできるようになる日が来るなんて希望は正直持てないけど。
でも少しでもいい方向に変わってくれたら嬉しい。

「好きなことを仕事に」の絶対視はかえって古くないか

ここ数年で、「私たちは、仕事や勉強を苦痛でなければならないものだと教え込まれてきた。そんなのは嘘っぱちだ。好きなことを仕事にする、幸せなことじゃないか。その方がモチベーションも上がっていい仕事ができる」というような意見を目にする機会が増えてきたように思う。
私が子供のころから、私の両親は「勉強を好きになる教育が大切だ、嫌なものを嫌々やらせて身につくものか」と主張していたし、私にとってはこの意見は特に真新しいものではないのだけれど、私の世代で、最近大人になってからこの意見に感化された日本人は多いのではないだろうか。

私はこの動きを否定したいわけではない。
むしろ賛成だ。
その一方で、就活をしている友達から、「好きじゃない業界を志望するなんて……」という声もよく聞く気がするのだ。
私の周囲で就活をしている友達なんていったら、エンジニアばかりなので、エンジニア特有なのかもしれないが。
「仕事を好きでやってる人間こそが天才で、そうでない凡人は天才に敵わない」
という意見も、それはそれで人を苦しめてきている。
そんな気がする。

好きこそものの上手なれ、とは確かに一面では納得がいく話で、好きだからいつまでもやってられる、頭に入ってくる、結果的に上達する、そんな面は確かにあると思う。
ただ、それは、「得意である」ということの、ひとつの在り方にすぎない、とも思うのだ。
スポーツでも、ゲームでも、芸術でも、上手さというのは必ず一つではない。
色の使い方がうまい人、リアルな質感を表現するのがうまい人、表情を描くのがうまい人、いろいろなうまさがあって、誰一人として、どんな天才でも、そのすべてのうまさをひとつの絵に詰め込むことなどできない。
仕事を好きじゃなくても、生まれつき手先が器用で上手に絵が描けるかもしれないし、好きじゃないからこそ冷静に流行りを分析して盛り込めるかもしれない。
業務内容は好きじゃなくても、人間関係の雰囲気が好きで、安心できる人間関係の中にいるときこそ本領を発揮できる人かもしれない。
べつに、上手い、の在り方は好きであることだけじゃない。

サザン・オールスターズのTSUNAMIも、大瀧詠一君は天然色も、それぞれのアーティストを代表するヒット曲だが、話に聞く限りどうも彼らはこれらの曲を好きで作ったわけじゃないらしいじゃないか。
特にクリエイター分野においては、「好き」は追求し続けるとくいっぱぐれることはよくある。
待遇を得るために流行りに乗ることは、低俗でも魂を売っているわけでもない。
人間だれもが当たり前にもっている人生の選択権を行使しているだけで、誰にもケチをつける権利なんてない。

好きな人間が、寝る間も惜しんで没頭して仕上げた仕事こそ、常に最高の価値を持つ、というのはあまりに息苦しすぎないか。
最近ようやく、働き方改革という動きがおこり、寝る間も惜しんで仕事をすること、人生において仕事を第一に置くことを社員に要求することが見直されつつあるところだ。
「仕事は苦しいものだ」という価値観同様、「仕事を好きな人間こそ本物だ」という価値観も、同時にこの働き方改革の中で、脱していくべき呪いじゃないか。
好きなことでも仕事にしていいし、好きじゃないことでも仕事にしていい。
自分の人生は、自分が納得できるように自分で選んでいい。
そういう社会を私たちは目指していたんじゃなかったのか。