コンパクトでない空間

a good experience become even better when it is shared

アスペルガーと恋愛

これはCCS Advent Clendarの13日目の記事です。

前: www.evernote.com

次: @Kyuuri0119


先日先輩が恋愛についての記事が読みたいとツイートしていたのを目にしたので、今回はASDの恋愛について書いてみようと思う。

ASDというのは、自閉症スペクトラムの略称だ。以前までは自閉症と呼ばれていた病気とアスペルガー症候群と呼ばれていた病気の名前が統合されて、自閉症スペクトラムになった。特に自閉症を除いたアスペルガーのみを指したい場合は、今は高機能自閉症スペクトラム、と呼ぶらしい。自閉症アスペルガーなら聞いたことあるって人も多いのではないだろうか。診断の条件はふたつ、自閉傾向があることと、自閉傾向によって社会への適応に支障をきたしていること。自閉傾向というのは、人の感情よりも出来事やものに関心、こだわりをもつこと、表情、声音、ジェスチャーなどの非言語的コミュニケーションが苦手なことなどを指す。私は、昨年自閉傾向ありと診断された。つまり、診断基準のひとつめを満たしていて、ふたつめの社会への不適合を満たしていない。

とはいえ、この記事は特別私や本当にASDの診断が出たような人だけを想定しているのではない。古月さんはブログでADHDを、「誰にでもあるADHD性質」と表現していたけど、自閉傾向についても同じだと思う。つまり、自閉傾向のあるなしは0か1かではっきり決まるものではなく、連続的なもので、多かれ少なかれ誰もが持っている性質であるということだ。人と話すと疲れるとか、真に受けて感心してたら笑うところだよ、と言われるとか、バラエティ番組を面白いと思う人の気持ちがわからないとか、そういう日常に溢れていて、その人の性格、個性の一部として受け入れられていて特段問題になってないものも含め、この記事では扱っていこうと思う。以降診断のでたASDだけではなく、問題になっていないものでもこういった個性を持つ人を含めて、自閉傾向のある人、と呼ぶことにする。

ASDに恋愛はできないのか?と聞かれたら答えは間違いなくNOだ。ASDはまあまったく変な人じゃないとは言いきれないけど、別に普通に友達を作って普通に恋愛して普通に仕事する人間だ。でも、まあ、恋愛苦手な人は多いのかなって見てて思う。恋愛得意な人だっている。バリバリ彼氏/彼女作ってる人は見たことがあるし、相性のいい伴侶を見つけて幸せになったりしてる人だっているはずだ。ただ、傾向として、自閉傾向のある人には恋愛が苦手な人は多いかなって、感じる。多分、それは、恋愛が感情の塊で、自閉傾向のある人は感情を取り扱うのが苦手だからだ。

私がASDかどうか調べるための検査の中に、文字のない絵本を見せられ、ページをめくりながら初見で即興で物語を作れ、というものがあった。先生がお手本に物語を作って見せてくれて、先生と交互に話を繋げていく。あとから先生に結果を聞いたときに言われたことだが、このときまったく登場人物の感情に言及していなかったことが、自閉傾向の人間の典型的な特徴だったらしい。そう言われても、まったく私に自覚はなかった。多分、先生のお手本には感情表現は含まれていたのだろう。それと同じように物語を作ろうとしても、感情表現がまるっとすっぽぬけ、そしてそれを指摘されてもピンとこないぐらい、私の視界の中、興味の対象に感情というものは含まれていない。確かに、あのときは、「お話を整合性のあるように繋げなければ」「まるでランダムに展開される絵に物語らしくなるよう理由をつけなければ」と必死で余裕がなかったのだけれど、少なくとも感情は論理の二の次だってことだ。

この感覚は、パソコンを苦手な人がパソコンを使うときの感覚に似ているのだろうな、と思う。何が起こっているのか、なにをどう操作するとなにが起こるのか、よくわからない。何もわからないままに適当に操作してたらエラーが出て、そのうち気づかずに致命的な失敗をしてしまうんじゃないかと、パソコンに触ることそのものに抵抗を覚えるようになる。そういう気持ちはきっと少し私が他人と話すときの気持ちに似ている。相手がなにを思っているのか、なにを言ったらどう思うのかわからないし、わからないままがむしゃらに付き合っていたら、突然わけのわからないことで怒られて、嫌われる。パソコンが得意でパソコンが苦手な人も気持ちがわからないって人でも、苦手意識のあるものはあるだろう。数学でも、運動でも、料理でも。多分それが、ASDが他人と話すときに感じているものだ。

そのぐらい人の気持ちがわからないと、恋愛っていうのは難しくて然りだろう。自分で言っててなぜ自分が恋愛できているのか不思議に思えてきた。具体的にどう難しいのか、付き合うに至るまでの過程を例に見てみよう。

定型発達*1で無難に恋愛ができる人達は、付き合うまで、お互いに少しずつ探りを入れ、段階を踏みながら、自分が相手をどう思っているかを暗に示し、相手が自分をどう思っているのかを汲み取っていく。最初はみんなで遊びに行って、次は二人でお茶。その次はどっちかの家に上がっておしゃべり。そんな風にハードルの低いところからはじめて、少しずつハードルをあげていく。最初は「相手は自分のことどう思ってるのかな」からはじまり、「恋愛的に好いてくれているかはわからないけど、自分と話すのに時間を割いてもいいと思ってくれるぐらいには好いてくれているんだな」になり、「付き合いたいと思ってくれているかはわからないけど、少なくとも大切な人とは思ってくれているだろうな」になっていく。俗に言う、「いい雰囲気じゃん?脈ありじゃね?」ってやつ。ここまできたらどっちから告白するかなんて大した問題ではなくて、お互い都合が悪くなければ自然と付き合おうって話になっていく。

これは、まさに自閉傾向がある人が苦手とする分野だ。難しすぎる。そもそも相手が自分をどう思っているか推測するのが苦手なのだ。まさか相手は「これが恋愛的に好きなのかはわからないけど、少なくともあなたと話していて楽しいと思うぐらいにはあなたのことが好きだ」なんて言ってくれない。全て、表情や言葉遣いや婉曲な言い回しやなんやかんやから察しなければならないのだ。よく、オタク男の女性耐性のなさをからかうときに、挨拶されただけで気があると勘違いする、なんて言われたりするけど、あれも自閉傾向なのだと思う。気が違ってるとかじゃなく、本当にただ単純に、相手の仕草や言動のニュアンスから相手が自分をどう思っているのかを推測するのが苦手なのだ。しかも、自閉傾向のある人間は、他人の感情を読み取ることだけでなく、自分の感情を表現することも苦手だ。簡単に言えば、無表情でブツブツと話すだけになりがちだし、会話の中身も客観的な出来事について話すだけで感情の話は出てきにくい。そして、厄介なことに、自閉傾向のある人が進むような環境には同じように自閉傾向がある人が集まりやすい。具体的に言えば、理、工学部、文学部、文化系サークルとか。ただでさえ気持ちを読み取るのが苦手なのに、気持ちを表現しない、読み取り難易度の高い人間が集まってくる。難しい。

そこで、私は思うのだ。お互い察して読み取るのが苦手なら、そのやり方でコミュニケーションをとる必要はないんじゃないかと。探りを入れ、婉曲に表現し、察する、というのは定型発達が円滑にできるだけお互い傷つかずにコミュニケーションをするための方法だ。自閉傾向のある人たちがあえてそれに合わせる必要はない。つまり、婉曲にではない直球に表現し、言葉になっていない部分は無理に読み取ろうとせず言葉をそのまんまに受け取る。つまり、具体的にはこういうことだ。

「あなたともっとゆっくり話してみたいから、今度はふたりでご飯でも食べに行きたいな」 「うーん、君のことが嫌いなわけじゃないけど、ふたりきりはちょっと怖いかな。他の人も一緒ならいいよ」

定型のやり方でこれを表現するならば、

「気になってるレストランがあるんだけど、今度一緒にいかない?」
「いいよ。みんなで行こう」

って感じだろうか。この会話から「あなたに興味があります」「二人っきりはムリ」の意図を汲み取るのは少なくとも私には難しい。

他の例を見てみよう。

「もしかしたら誘っても来てくれないんじゃないかと思ってたんだけど、なんでOKしてくれたの?」 「前々からあなたのこと気になってたから、ふたりっきりで話しても楽しめるか確かめたくて」

とか。これは定型のやり方なら、とか言う必要はないだろう。いわゆる「普通」の人たち*2はこんなこと聞かない。答える方は案外聞いたら答えてくれるんじゃないかとは思うけど、もうちょっとオブラートに包んだ(ASDはこれが苦手だ)、「なんとなく、いいかなと思って」みたいな言い回しをするかもしれない。

わかりやすいと思ってもらえただろうか。定型発達の人に上の例のようなことを言ったらちょっとびっくりされちゃうかもしれないけど、自閉傾向のある人ならわかりやすいと喜んでくれるだろう。定型発達ならびっくりするといったって、びっくりされるだけで、それがトラウマになって傷ついてひきこもっちゃったりはしないだろうし。もしかしたらひかれて距離を置かれてしまうかもしれないけど、こう言われてひくようなやつはどこからどう見ても自閉傾向のある人とは相性が悪い。距離を置いて、事務的な用事があるときだけ話すような付き合いをしていくのがお互いのためだろう。うっかり間違えて恋人にでもなってしまったらそれこそ付き合ってからが地獄だ。ここまではっきり言葉にしなくてもわかるよ、って人はもう少し本音を省いた優しい言い方をしてもいいかもしれない。自分の読み取りレベルに合わせて、わからなかったら聞けばいいし、わかったら聞かなくていい。相手が聞いてきたときや、わかっていないんじゃないかと不安に思ったときははっきりと言葉にして説明すればいいし、わかっていそうなら説明しなくていい。

そうはいっても、現実問題、いうのは簡単でも、やろうと思ったらそう簡単じゃない。トラウマとか、今までに言われてきた言葉とか、ずっと自分に強いてきたマイルールとか、そう簡単に変えられるものじゃない。変えるには時間がかかるし一言言われてパッと変われるなら苦労しない。ひとつには、自分は相手のことを好きなのに、相手は自分のことを好きでないことに対する傷つきもあるだろう。これは個人差があって、私はわりと「あなたが私を好きでなくても、私は勝手にあなたのこと好きだから」「嫌だと言われたことをして嫌な思いをさせたらだめかもしれないけど、私の気持ちがどうであるかは自由でしょ」と思う方なのだけれど、気になって傷ついてしまうひとは傷ついてしまうだろうし、それはなかなか簡単には解決しない複雑な問題だと思う。他にも、聞くことはかっこ悪い、恥ずかしい、失礼だ、と思っている人もいる。それだってなかなか変えるのは難しいことだと思うけど、その人たちには「正しく誠実であれ」と伝えたい。相手の気持ちを推測し、相手が何の苦労もしなくて済むよう全て先回りして配慮する、というのは実は誠実ではないと私は思っている。誠実というのは、目の前の相手の今の言葉に真摯に耳を傾けることだ。誠実でない、というのは、相手が伝えようとしている気持ちを軽視してどうでもいいやと軽く扱うことで、相手の話を聞こうという姿勢さえあれば、相手が言葉にしていない気持ちまで察しなくても十分誠実といえる。むしろ、自分の想像の中の相手に振り回せれて、今目の前にいる相手の言葉を見失う方がよくない。少なくとも私はかっこつけて私の気持ちを勝手に決めつける人より、誠実に私の気持ちを聞いてくれる人のほうが好きだし、私に限らず結果的に愛されるのは誠実な人ではないだろうか。それに、もしかしたら自分が真摯に聞く姿勢を示せば、周りのひとも心を開いて本音を打ち明けてくれるんじゃないか、と私は思っている。

おまけ

普段お世話になっている認知行動療法外来の先生にオススメされた本。
自分はASDなのかそうでないか迷っている、でも病院に行くほどでもないかなと思ってしまう、病院に行くのは怖い。
そういう人におすすめの本だそうです。
私は読んでいないのだけれど、ASDはどんな病気なのか、社会適応している、していない、とはどういうことなのか、等が詳しくかいてあるらしい。
もし「自分も自閉傾向かも?」と思ったら読んでみたらどうでしょうか。

*1:発達障害のない人のこと

*2:ここでは定型のこと