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かけ算順序問題について、一言

最近、ツイッターは小学校算数で掛け算の順序が模範解と異なるときにバツにすることの是非についてもちきりだ。

そんな中、こんなツイートを見かけ、少し話をした。

このツイートにもリプライで私の意見を述べたが、この内容はもっと多くの人に発信するべき、という気がしたので、ブログにも書いておこうと思う。

先に言っておく。私は、掛け算の順序が逆でもマルにするべきだと思う。

だから、マルにするべき派の意見を否定するつもりは毛頭ない。

それでも、バツにするべき派の気持ちも私にはわかるので、その気持ちも理解して配慮した上で、マルにするべきを主張してほしいな、と思うのだ。

私は教育関係者ではないので、ここから書くバツにするべき派の気持ちは全て推測でしかないが、読んで、考えていってほしい。

整数の掛け算については、順序を交換しても結果は変わらない。

それは、紛う事なき数学的事実ではある。

ただ、教育というのは、数学的に正しいかどうかだけでは回らない。

教育現場に携わる人たちが真っ先に考えるのは、子供の指導、成長だ。

もちろん、かけ算は順序を交換しても構わないと理解した上で順序を変えて書いている生徒もいるだろう。

ただ、きっと雑多な生徒が集まる小学校のこども達の中には、大学数学を習ってしまった今となっては、想像もつかないような発想で解答を書くこどもたちもいるのだ。

そして、その発想は、正しく他のケースにも応用できるとは限らない。

例えば

「箱が5つあります。それぞれの箱に6つずつりんごが入っています。全部でりんごはいくつあるでしょう」

という問題に、

「5×6=30」

と答えた生徒がいたとする。

もしかしたら、この生徒は正しく、順序を交換してもいいから6×5を5×6と書いてもいいはずだ、と思って書いたのかもしれない。

あるいは、それぞれの箱から1つずつ取り出す操作をしたら5つのりんごが手に入って、その操作を6回できるから5×6だと考えたのかもしれない。

その場合は問題ないし、指導の必要はなく、ただマルをつけて褒めてあげればいいだろう。

でも、もしかしたら、5と6という数字をみて、今かけ算を習っているから、最初から出てくる順番に数字を並べて「5×6」としたかもしれない。

そうであれば、今回はたまたま正しかったけれど、他の問題で同じ考え方で解答をしたら間違いになってしまう。

その考え方でいくなら、例えば、

「箱が5つあります。全部でりんごは30個あります。それぞれの箱に同じ数ずつりんごが入っているとき、一つの箱に何個りんごが入っているでしょう」

という問題は「5÷30」となってしまい、正しく解けなくなってしまう。

現実に、こんな風に単純に順序で考える生徒がいるのかは、わからないが、これ以外にもきっとたくさんの想像もつかないような考え方で答えを出している生徒がいるだろう。

それを言うなら、順序だけ見たって、たまたまその順序で当たっただけで考え方が間違っている可能性はある。

例えば、さっきの例なら、たまたま「数字の出てくる順番と逆の順番に並べて、間に×を書く」と覚えていれば、たまたま答えは正しくなってしまって、その生徒は理解しないままになってしまうだろう。

でも、それを先生に見分ける方法はないのだ。

先生が生徒の答案を見たときに推測できることは、「かけ算の順序が正しい子は理解しているだろう。かけ算の順序が逆になっている子は理解していないかもしれない」ということだけだ。

だから、順序が正しければマル、逆になっていればバツにしてしまう。

もちろん、私はこのやり方に賛同はしない。

私は、生徒はバツをつけられれば苦手意識を持つし、できるだけ微妙な解答はマルにしてあげてほしい、と、理解してないのなら、マルにした上で補足説明をしてあげてほしいと思っている。

でも、マルがついているのをみたら、そこで満足して振り返らず、先生のコメントが書いてあっても読まない子だっているのかもしれない。

だから、このかけ算の順序の件については、できればマルにしてあげてほしいなあ、と思いつつ、その生徒を観察し、対話した上で、先生がバツをつけるべきだと思ったのなら、それも仕方がないのかなあ、とも思っている。

マルにするにせよ、バツにするにせよ、少なくとも、生徒の声に耳を傾け、生徒の考えを理解しようと、生徒の自尊心を育てようという意識を持って判断してほしい、というのが私の願いだ。

補足:

順序を逆に書くことをバツにすることが問題として取り上げられたのは、元はと言えば「吹きこぼれ」の問題だろう。

吹きこぼれ、というのは、落ちこぼれの反対に、能力が高すぎて浮いてしまう、馴染めない、先生に叱られるなどのトラブルを抱えた生徒のことだ。

きっと最初は、わかっていて掛け算の順序を逆にした、能力の高い方の生徒がバツにされて悲しい思いをしている、という話からこの話題ははじまっていて、それはまさしくこの吹きこぼれ問題だ。

個人的に、吹きこぼれてしまって苦労している生徒は本当にかわいそうだし、なんとかしてあげたいし、吹きこぼれの生徒を配慮しようという取り組みはとても評価している。

ただ、それが、履き違えて、吹きこぼれでも落ちこぼれでも全ての生徒に大して順序を逆にしても何も文句を言わずにマルにするべき、というのはちょっと違うんじゃないか、と思っている。

吹きこぼれの生徒に必要なのは、理解と個別の対応だ。

全ての生徒を吹きこぼれの生徒を基準に対応しようとしたらうまくいかないし、他の生徒と同じ対応を吹きこぼれにしようとしたってうまくいかない。

私個人は、吹きこぼれでも、そうでなくても、全ての生徒が特別扱いされて、全ての生徒に対してその個性にあったハンドメイドな教育が施されたらいいと思っているけれど、現実にはそうもいかない。

他の子を特別扱いする、ということに対しての社会の理解はなかなか得られないし、先生だってそこまでしてあげられるだけの時間的余裕はない。

先生は、あっちをとればこっちが立たず、こっちをとればあっちが立たず、世間の目や保護者のクレームや上の要求に挟まれて大変だ。

もしかしたら、この掛け算順序問題に関しては、吹きこぼれの生徒には、

「あなたが掛け算をちゃんとわかって逆に書いたのはわかっているんだけど、わからずに順序を逆に書く生徒はバツにしなくてはならないし、あなただけマルにはできないから、バツにさせてもらった。でも、あなたがわかってるのはわかるから。次からは先生がバツにしなくて済むようにに正しい順序で書いてくれる?」

と説明すればわかってもらえる気もする。

なんなら、生徒によっては言われなくてもわかってくれるかもしれないが、自閉傾向がある吹きこぼれの生徒などは言われないとわからないこともあるだろうし、たとえ言われなくてもわかっていたとしても、やっぱり先生から一言あれば安心感が違うと思う。

でも、毎度毎度こういう対外的な問題も配慮した解決策があるかわからないし、いずれは先生だけではない社会の吹きこぼれへの理解が必要だ。

この問題は、きっとすぐに解決できるものではない。少しずつ、社会の理解が広まり、先生の待遇がよくなり、クラスの人数が減って、生徒一人一人に合わせた「全員が特別扱い」になれる教育が広まっていったらいいなと思う。