コンパクトでない空間

a good experience become even better when it is shared

「自分には友達がいない」の呪い

友達ってなんだろう、っていう思考実験についてのひとりごと。

「自分、友達いないし」
と言う人は結構いる。私も昔そうだった。
そんなことを言うと決まって、
「私は友達だよ」
なんて言われるんだけど、そう言われてもどうにも友達って気分になれない。
こうなっちゃうと、もう、友達というものの作り方がさっぱりわからなくなる。
友達ってなんだ。話しかければみんな相手してくれる。誘えば遊んでくれる人もいる。でもそれってなんだか、友達って気がしない。
友達って、ぼっちだって笑われないように、毎日お弁当を一緒に食べる保証をし合う取引相手なんだろうか。友達ってもっとあったかくて、救われる存在のはずじゃないんだろうか。
みんな当たり前みたいに友達を作ってる。私だってクラス替えの直後には話しかけてみたり馴染むように努力をしたはずなのに、今は休み時間になるとみんなそれぞれグループを作ってお弁当を食べていて、私は気がつくと一人だ。
話しかけていれてもらうことはできるけど、そんなことをしてもどうでもいい当たり障りのない話をするばかりで全然面白くないし、疲れるし。
どうしてみんな簡単に友達を作ってあんなに楽しそうにしているんだろう。私はどうしてみんなのようにできないんだろう。私には人間として必要ななにかが致命的に欠けてるんじゃないだろうか。私が私である以上一生友達は作れないんじゃないだろうか。
そんなことを言うと今度は、「自分から壁を作ってる」って言われる。私たちは受け入れるつもりなのに、あなたが自分で勝手に壁を作ってるんでしょ。自業自得だよ、って。
壁ってなに?どうやったらなくせるの?
確かにみんなとの間に厚くて高い壁は感じるけど。でもそれは私が好きで作ってるわけじゃない。あなたたちが自分達で勝手に取り決めをして、その取り決めを知らない私との壁を作ってるんじゃないの?
私はこんなにも友達がほしいと思っているのに、壁を作りたいなんて思ってるわけないじゃん。
どうして誰もわかってくれないんだ。
そう思ってた。

今はどうかというと、友達に囲まれて、楽しく日々を送っている。
今なら思う。昔疑問に思った「壁ってなに?」の答え。壁は、文化の違い、価値観の違いだ。どっちかが作ったものではなくて、人と人が違う以上、自然とそこにあるものだ。両側から乗り越える努力をするものだ。
今日、後輩と、「後輩ちゃんは嫌だと思ったら言ってくれるから、言ってくれたものについてはできるだけ気を付けてるんだけどね」「それで十分なんですよ」という会話をした。
他の友達とも、「同じ趣味を共有して遊んでくれる人がいる、それだけで十分ありがたい」という話もした。
多分、この二つの会話に、友達って概念のエッセンスが詰まってる。これは、私が何度も言われて嫌になった言葉だけど、それでもこうして友達ができてみるとこの言葉しか浮かばないから、書くことにする。友達っていうのはなにも難しい概念じゃなくて、きっととてもシンプルなんだ。
一緒にいる。話す。遊ぶ。それで、お互いに、悪くないなって思う。それだけで友達になれるんだ。
もちろん、昔の私はきっとこの説明じゃ納得しない。だって実際話して、遊んでて、相手は友達だと言ってくれてるけど、友達って気がしない、って言うだろう。そんな人にもわかるように丁寧に説明するなら、こうだ。
あれもこれもバレたら嫌われるから隠さなきゃとか、そんな余計なことは気にせず、ただ自分のやりたいようにやって、話す。ただ、なにも気にしないわけじゃなくて、これは嫌だと言われたことだけはやめる。このルールで接していて、自分が嫌だなとも疲れるとも思わなくて、相手も嫌だなと思わなかったら、友達だ。
ま、自分のやりたいようにやるっていうのは結構難しい。自分がなにをやりたいのかって自分のことなのに案外わからないし、プチトラウマみたいなものがあってどうしても怖くてたまらなくてできなかったりもする。自分が嫌だと思っているかどうかに気づくのも苦手な人は苦手だと思う。
自分には友達がいないと思ってしまうと、友達を作るには人一倍努力して周りに合わせなければと思うし、そうなると「自分がやりたいようにやる」からどんどん離れていく。悪循環、「自分には友達がいない」の呪いだ。
友達っていうのは、シンプルって意味では難しくないけど、難しい人にとっては難しいっていうのも、否定していたら前に進めない事実なのかもしれない。

私は、言葉や人の気持ちを大切にする人と話していると楽しい。学問や芸術や文化に興味のある人と話していると楽しい。
ノリや雰囲気に重きをおいた会話や、人を傷つける会話、勉強を軽視するような会話はあんまり楽しくない。
あなたはどんな人が好きで、どんな会話が好きなのだろうか。
もしあなたが友達がいないと感じるなら、友達はいるはずなのに寂しいと、どこか繋がっていない、理解されていないと感じるなら、友達を作るために、幸せを掴むために必要な最初のステップは、自分を知ることかもしれない。

受け入れ先企業は神ではない話

8月に行ってきたインドのインターンシップで、学んだことのハナシ。
期間は3週間。日本においては長めのインターンシップだが、
海外においてはむしろ随分と短いほうにはいる。
この三週間、ほんとうにたくさんの人に、
お世話になって、迷惑をかけて、許されて、構ってもらって、
貴重な経験をさせてもらったと思う。

経験はシェアするべきだ。
ずっとインターンシップについて記事を書きたいと思いつつも、なにを書こうか迷っていた。
インターンシップ中に解決した技術的問題について、
ほんとに具体的な技術的記事を書いてしまうという手もあったし、
それは未だに後で書いてもいいと思っているのだけれど、
私が書きたいこと、みんなに伝えたいことはもっと他にある気がしていた。
未だにその正体がつかめたとは思っていない。
それでも、インターンシップに行く前と後では私の考え方は変わったと思うし、
その考え方を、わかってもらえるにしろ、もらえないにしろ、発信したいと思ったのだ。

インターンシップに行く前の私は、受け入れ先の会社はずっとたくさんのノウハウがあって、
マネジメントでも技術的なものでも私なんかでは及ばないたくさんの正解を知っていて、
その人たちが手間と時間を割いて受け入れてくれるというのだから、迷惑をかけてはいけない、と
会社の人の言うことは絶対で、逆らってはいけない、と思っていた。
実際にそういう気持ちでいた方がうまくいく企業というのはあるのだろうと思う。
でも、私がお邪魔させてもらったFidelテクノロジーズはそうではなかった。

一つの小さな例として、再三言われた言葉がある。
「日本では他の人がやっていることを邪魔して質問するのはよくないのでしょう?
でもインドでは、違うから。なにか躓いたら遠慮なく何度でも聞きなさい」
そもそもそこからして、私のイメージしていたものと違っていた。
実際、躓いたらすぐに聞けた方が効率がいいと思う。
これは比較的受け入れやすく、すぐになじめた違いだった。
もっと、最後の最後まで違和感として残り続け、
なかなか理解して呑み込めなかった違いがある。
それは、受け入れ先企業は神ではないし、万能ではないし、
間違えることだってある、ということだ。

時系列順に私が経験したストーリーを説明しよう。
着いてまず、私が最初に言われたことは、「AndroidiOSのテスト自動化システムを作れ」だった。
期間が3週間と短いから、細かいテストケースやオプショナルな機能はつけなくていい。
最低限動くフレームワーク*1を作れ。
必要なパソコンやソフトウェアは言ってくれればこっちで用意するから、
何が必要かも自分で考えて決めてくれ。
私もAndroidiOSのテスト自動化システムを作るのははじめてだから、わからない。
Webアプリのテスト自動化を行った技術者を担当につけるから、
彼に相談してアドバイスをもらいながら進めてくれ。
「テスト自動化システム」の具体的な要件の説明などはあったけど、
要約するとそんな感じの指示だった。

この時点では、私はまだ、「自分たちにもわからない」といいつつも、
この技術者指導者さんの頭の中には正解にほぼ近いものが既にあって、
彼がうまいこと誘導してくれるから、私は自分からたたき台を作るとか、
積極的に動いている姿勢を見せつつ、うまいことその誘導に乗ればいいのだろう、と思っていた。
あれ?と思ったのはだいぶ先になってからだった。

仕事は難航した。
テストケースデベロッパー向けのインストールの資料を渡され、
指示されたとおりにいくつかのソフトウェアをインストールした。
ビルドツールはGradleを使うように指示されていたし、
インストールの資料にはeclipseとUIテストツールのAppiumが入っていたので、 それら3つを含むフレームワークを提案し、
GradleとAppiumの連携は具体的にどうすればいいのか、と技術指導者に相談したら、
Appiumはテストツールというよりむしろ既存のエミュレーター*2との連携をサポートするサーバーであることを説明され、
jenkinsのe-mail通知の設定の説明をされた。
このときの私は、この説明は一見私の質問と関係ないように見えるけど、
きっとそれは私の理解が足りてないだけで、
関係のあることなのだろうと思っていた。
技術指導者の人が一通り説明をし終えて帰ってしまった後、一人でもう一度考え直し、
それでもやっぱり理解できないので、もう一度聞きに行く。
そしてまたまったく違う説明を受けて、その意味を一人で考えて、
やっぱりGradleとAppiumの連携ができないので、聞きに行く。
そんなことを繰り返していた。

私が、自分の認識の間違いに気づいたのは、質問しやすいようにと、
彼の隣のデスクに移動させてもらえたときだった。
Android Studioと、Gradleと、Appiumの連携の情報ならあるけど、eclipseはない」*3 と言ったら、見せてくれ、そのURLを送ってくれ、と言われた。
そこではじめて、彼もGradleとAppiumの連携の方法がわからないんだ、とわかった。
そうだ、彼だってわかってたわけではなかった。
だから、質問しても答えがわかるわけがない。
彼自身も、きっと、自分自身だってできるかどうかわからない仕事を、
言われるがままにマラーティー語*4も話せない小娘に指導しなければいけなくなって、困っていたのだろう。
つまり、私は、本当に自分自身の力でフレームワークを作る仕事を任されていたのだ。
それが、プロジェクトリーダーの意図通りだったのか、
プロジェクトリーダーは技術指導者がわかっていると思っていたのか、今となってはわからないけれど。
プロ意識を持って、その仕事を完遂してみせなさい、と言われたような気分だった。
誰かに金魚のフンとしてくっついていくだけではダメだと、金魚は保証をしてくれない、と。
アドバイスが信用できるかどうかまで自分で責任をもって判断しなければならなかったのだ、と思った。

結局、Appiumの自動起動ができない問題自体は
彼がeclipseプロジェクトのmainからappiumを起動させるbatファイルを呼び出すことで解決していた。
本来なら、Appiumを自動起動してくれるようなプラグインをGradleに入れるのが
きれいなやり方なのではないかと思っているが、
検索してそれっぽいプラグインを入れてみても、自動起動はしてくれなかった。
すぐに、Appiumはスクロール機能などに問題が多く、
UIAutomatorなど他のUIテストツールと併用する必要があることがわかったため、
Appiumの使用自体を諦めてしまったので、
もしかしたらもう少し頑張って探してみればなんとかなったのかもしれない、と今は思う。
いずれにせよ、多分、Appiumは単体で使うためのツールではない。
そういうブランドってあるでしょう、ユニクロとか。
どうやら、内部でUIAutomatorを使っているらしいので、
感覚としてはUIAutomatorと併用するならライブラリに近いものなのかな、と思っている。

そもそも、思ってみれば、eclipseとGradleを連携させるのが茨の道だ。
楽にいきたいならAndroid Studioがいい。絶対そうだ。Gradleがそのまんま使える。
当時の私はテスト自動化なんて言葉自体はじめて聞いたよってレベルだったので、
資料にあったソフトウェアをインストールし、技術指導者の指示に従ってeclipseを使っていたけれど、 誘導に乗っかったつもりが、完全に茨の道に引きずり込まれていた。
全体の方針は大きく間違えないようさりげなく指導されて、
保証された牧場のなかで自分にできることをすればいい、という認識は端から間違っていたらしい。

そんなわけで、私が学んだことは、インターンシップ受け入れ先だってなにも神じゃないし、
完璧じゃないし、知らないことも間違えることもたくさんある、ということだ。
なにも悪口のつもりで言っているわけではない。人間なのだから当たり前のこと。
インターンシップ生は、インターンシップ先の誘導や指示におんぶにだっこにならずに、
こちらからも、相手の状況を把握して、
ともに仕事をするインターンシップというイベントでお互いのためになにができるのかを、
積極的に考え、提案するべきなのだ。
それが、よく聞く
「受け身にならずに、積極的な行動をしろ」
という言葉の意味だったのかもしれないな、と今なら思う。

受け入れ先が必ずしも上手に仕事を振って誘導してくれるわけではない。
学生と毎日触れ合っている大学の先生ですら、
学生がどこまでできるのかの認識を誤って、
テストを難しくしすぎたり、簡単にしすぎたりして、
きれいに点数がバラつかないテストを作ってしまうことはよくある。
インターンシップなんて、大学を卒業して久しい、
学生と触れ合う機会なんてここ何年、十何年もなかった人たちが企画しているのだ。
もう自分が大学生だった頃のことは忘れているかもしれないし、
時代が違えば受け入れ先の方々が大学生だったときと今の大学生は違うかもしれない。
専攻だって違うだろうし、当然のごとく、
学生にできることといっても一人一人得意不得意もできることも全然違う。
自分たちにとって、会社というものがなにもわからないブラックボックスであるのと同様に、
受け入れ先から見たら、私たちインターンシップ生はブラックボックスなのだ。
会社内の常識だって、きっと、どこまでインターンシップ生がわかってて、
どこがわかってないのか、わからないことだってあろう。
自分がなにを知っていて、なにを知らないのか。なにができて、なにができないのか。
ただやれと言われたことをやるだけではなく、こちらからも発信して、
コミュニケーションをとり、すり合わせていく必要があるのだ。

ちなみに、心に残っている言葉がひとつある。
そんなこんなで、私はいろいろと技術面ではない部分で苦労をしながら
Androidアプリのテスト自動化のフレームワークを作り、
インターンシップの最終発表日に、その使い方やそのツールが優れている理由をプレゼンした。
面識のある直接の上司も、面識のないなにやら偉そうな人も何人かが聞きに来ている中で、
もう、こっちとしては、ほんとうにこのフレームワークで大丈夫なのか、
彼らの方がもっとプロフェッショナルで、
こんなんじゃダメダメだと言われるんじゃないか、とどきどきである。
一通り発表が終わり、厳めしい顔をした人が手を上げて、私のプレゼンへの感想を述べてくれた。
彼は、ニコニコして、「So, you learned a lot」と言ったのだ。
You learned a lot.
日本語で言うなら、「そっか、いっぱい勉強したね」みたいな。
彼はそれ以上とくに言及するでもなく、プレゼンはそのまま終わってしまった。

あ、それでよかったんだ。
私の勉強になりさえすれば、結果的にできたフレームワークがよくても悪くても大した問題じゃなかったんだ。

全てのインターンシップがこうなのかはわからないけれど、
このインドにおける三週間で、私のインターンシップに対するイメージが変わったのは間違いない。

*1:枠組み、構造と訳される。要は最低限でいいということ。

*2:異なるOSの上で他のOSを再現するソフトウェアこと。この場合Windows上でAndroidのOSを再現する。

*3:Android StudioeclipseはどちらもIDEと呼ばれるソフトウェアを開発するためのツール。当時はAndroid Studioではなく、eclipseの方を使っていた。

*4:インターンシップ先、プネの現地語

What is vegetarian?

This time, I want to try to write an article in English.
One reason is that there are some friends who wants to read my blog but can't read Japanese, and I think this topic become more interesting if I can get opinion from different nationalities.
Japanese readers, please don't close nor browser back just because this is written in English.
Please continue trying to read for a while. You will understand this article is written in easy word immediately (because I don't know difficult word).
Still you feel you don't get what I mean or not interesting, you can leave this page.
I think my English writing ability is not enough to express what I think, but I'd like to try. Please let me know there are anything you don't understand.

So, what is vegetarian?
Through travel to NY and India, I saw many vegetarians.
This experience made me think about this topic.
I want to write down how my image has changed, and what I think now.

I think, for most Japanese, vegetarian is a person who is unbelievably religious, live in a country far from Japan.
They have sense which is hard to understand, and so strict to themselves that hurt their health.
This is a typical image of vegetarian, and actually was my image of vegetarian before.

When I visited NY, I met a vegetarian. He was a vegetarian because of ethics.
I realized that there are person who don't eat meat just because of their own opinion, not a doctorine.
In most of the restaurants in NY, there are some dishes for vegetarian, and they show which is for vegetarian in menu, like we sometimes see mark of allergy in Japan.
I realized that there are a lot of vegetarian in America which is familiar country for us.
But still I thought vegetarian is strict for themselves, and I was worried about his health.

Vegetarian in India is quite different from it in America, ofcourse much more different from it in Japan.
Vegetarian and vegetarian food is called veg. Non-vegetarian is called non-veg.
There are many people who have never eat any non-veg in India.
Ofcourse not all, but much more than Japan. I thought it is similar to people who haven't drunk alcohol before they become 20 in Japan.
They are minority, but still not surprising.
They don't need strong reason to be veg. They ar veg because just it is normal in India.
There are no beef, no pork in Pune. More that half of foods I see is veg.
To be veg in Japan, I need a big effort to find veg food, but in here, It is much easier.
I saw a sign showing "No non-veg and smoking here".
This fact mean that there are some people who feel uncomfortable with a person eating non-veg food.
One Indian coordinator said not so many people, but there are a few people who don't like non-veg person because they kill other animal.
Since I saw this sign in country side, and I see non-veg food everyday in city side, I guess rate of veg is higher in country side. In country side, veg is majority, familiar, and non-veg is minority which is thought as foreigner hard to understand.

There are one more episode I thought interesting.
When I go out with veg and asked that "How do you think about non-veg?"
Their answer was "What nutrition people need to live is different depending on each person."
They accept non-veg, but still they need reason to accept.
I expected answer something like "I'm veg because I want to. I don't care, whether other people wants to eat non-veg."
I felt that non-veg is still something strange and need effort to accept for them.

I used to think, we, human beings need animal protein to live healthy, but it was wrong.
A lot of veg live healthy in India.
So, am I allowed to eat other animals?
When I was a children, I used to wonder whether I am allowed to kill and eat animals.
At that moment, I thought, I need to eat animals to live, so it's okay to eat other animals.
If it was wrong, how can I allow myself to eat other animals?
I know I can live healthy without meat, now, but still I want to eat sushi, beef stew, and many other non-veg food, just because they are delicious.
This means, I want to kill animal to have a delight.
Am I selfish? Is it thing to be blamed?

In a Japanese animation, Madoca Magica, a character Kyube explains relationship between people and farm animals.
He says, it is a ideal symbiotic relationship.
Farm animals can live safe, because of people's protection.
While some wild animals are endangered, there are enormous number of farm animals.
They are protected from everything by human. They don't need to live in competitive wild life.
Do you agree with him?
We can decide our life, learn a lot of things and do what we want to do, but farm animals can't.
Is it ideal symbiotic relationship?
Half of my heart agree with him, but the other half says it's too biased.

There are so many people who earn money by non-veg food and who pay money for non-veg food.
Our economy includes non-veg food, already.
I think I will keep eating non-veg food.
But, I want to remember that I eat other animals, and there are people who don't like it.
I hope more and more restaurant begin to have veg food in Japan.

おおらかなインド人のがんこなこだわり

インドからこんにちは。
現在IT企業にてインターンシップ中です。

インターン自体の感想もいずれまとめたいけれど、今インドの文化について感じていることを、とりあえずまとめてしまいたい。

インド人はオープンマインデット、グローバルな人たちだ。
海外にいくのも躊躇しないし、私たちのような珍しい他の人種の人に対しても、
怯えることも馬鹿にすることもなく、物珍しげに対等に話しかけに来てくれる。
欧米のように、迷ってうろうろしていたり、電車の中出となりに座ったらすぐに話しかけ来るような関西のおばちゃん精神はないけれど、
好奇心旺盛な猫が溜まり場に迷い混んだ犬に興味を示すように、遠巻きに控えめに、時折側までやってきて、こちらの話を一生懸命聞いてくれる。
遅刻しても失敗しても、絶対に怒らずに大丈夫と言ってくれる。
以前「日本では人に迷惑をかけるなと教わるが、インドでは自分も迷惑をかけているのだから他人の迷惑も許せと習う」という話をどこかで聞き齧ったけれど、なるほどと思わせられる。
国民性だけですべては語れないけれど、全体の傾向としては、そういう優しくおおらかな人たちという印象をいまのところ受ける。

しかし、そのイメージと合わない一見矛盾するような側面もある。
食文化と服装の文化だ。

スーパーでケロッグのシリアルを見つけて購入したけれど、調べてみたところ、ケロッグがこうして今のようなシェアを獲得するまでは相当な苦労があったらしい。
牛乳を殺菌するしない、冷たいまま飲む飲まないという、具体的な衛生環境と習慣の違いもあるけれど、
本質的な部分にあるのは、インド人の伝統料理に対する頑固さであるようだ。
「インドの伝統料理の朝食は健康に悪いが、ケロッグのシリアルなら簡単でバランスのとれた食事ができる」と広告を打ち出したところ、
家庭の決定権を握る主婦層に「インド料理を否定するのか」と反感を買い大失敗した、というエピソードは興味深かった。

確かに、朝御飯もお弁当もレストランも、現地の人たちは断固としてインド料理ばかり食べる。
ひとつの理由は、インド料理と他の国の料理で値段がまったく違う点にある。
私の会社が用意してくれるお弁当(二食分ぐらいのボリュームがある)は60ルピー、近所のお肉屋さんで買える鶏肉は900g195ルピー、パンは一斤ほどのサイズで30ルピーだけれど、会社向かいのピザハットのピザはMサイズ一枚550ルピーだ。
確かにこれだけ圧倒的に違うとインド料理が多くなるのもわかる。
しかし、よく考えてみると、それだけの値段の違いは大量に生産して大量に販売する流通システムが構築されているかどうかによるところが大きいだろうし、
つまりこだわりの理由と思われた値段の違い自体ももとはといえばインド人の伝統料理に対するこだわりに由来しているのだ。
他の国が経済的発展と共に他の国の食文化を取り入れていくのに対して、インドのこのこだわりようはどういうことなのだろう?
辛さも甘さもとことん濃く味をつけるインド人の感覚からすると、他の国の料理は味が薄くて水のように感じられたり、
インド料理には含まれることはほとんどない、魚や豚肉、牛肉の臭みが受け入れがたかったりするらしい。
しかし、他国の料理に受け入れがたい味の違いがあるのはどこの国にとっても同じだ。
日本がラーメンやカレーライスを産み出したように、アメリカがココナッツラーメンを産み出したように、
インドが他国の料理を辛く、あるいは甘くアレンジして受け入れることなく、伝統の料理を保存し続ける本質的な理由は何処にあるのだろう?

服装についても同じことが言える。
たとえ宗教意識の強い人でなくても、インドの伝統衣装を身に纏い、海外に行ってもそれを着続ける。

食文化も、衣装も、インドのものは宗教の影響を色濃く受けている。
必ずしも信心深い人たちだけではなくても、伝統を守り続けるのには、宗教と相互に影響しながら長年培われた価値観がひとつの理由の手がかりになるのかもしれない。

自分の手でゼミを開くということ

実はこの前期の期間、自主ゼミをやっていて、先週、その最終回が終了した。
ずっと報告記事を書こう書こうと思って書けていなかったのだけれど、キリがいいのでこれを期に書いてしまおうと思う。

都数(都内数学科学生集合)の会員は入会直後一年生の頃からゼミに参加し、ゼミというものに慣れているみたいだけれど、
千葉大学の私は長らく都数の存在を知らなかったし、大学内で数学科の学生がゼミをする習慣もなく、
ゼミに自分自身参加した経験はおろか、自主ゼミをしている人も見たことがなかった。
それがいきなりゼミを開く企画側。躓くポイントも至らない点もがたくさんあったと思う。

そもそも、自主ゼミを開こうと思ったきっかけは、学科の萩原学先生に「やってみれば?」と声をかけていただいたからだ。
それまでは、自分達で勝手にゼミを開くなんて、出来るかどうか考えることはおろか、発想そのものがなかった。
当然「やってみれば?」と言われてあっさり「やるか」と思えたわけではなく、
最初は「私にはそういう企画に付き合ってくれそうな友達もあまりいないし、到底無理だ」と思っていた。
それでもやってみよう、と思ったきっかけはニューヨーク旅行だ。
意欲的に数学を学ぶ学生たちを見て感化されたと言ってもいい。
情報専攻にしろ、数学専攻にしろ、自主的に学ぶ人たちというのは決まって「授業だけでは全く足りない」と言う。
私は彼らほどできた学生でもないので、がっつり自主的に勉強して胸を張って「授業だけじゃ足りない」なんて言える立場ではないけれど、
少なくともそう思っている人たちがいる、そういう人たちについていくためには授業外の勉強が必要だ、と思うようになった。

当初心配していた、人が集まらないのではないかという心配は杞憂で、ありがたいことに学科LINEや個人的な知り合いに声をかけたら14人も集まってくれた。
苦労したのは、「教科書」と「場所」。

他の分野ではもっといろんな種類のゼミがあると思うけれど、数学でゼミと言ったらまず輪読だ。
ニューヨーク旅行で英語の数学用語がわからないと感じた私は、英語の教科書で輪読をしたいと思ったのだけれど、
どんな教科書があるのか、どう選んだらいいのか、さっぱりわからない。
難しすぎても簡単すぎてもいけないと思うし、新しいやつがいいのか、読んでて面白いやつがいいのか、
どこに行けば英語で書かれた数学の本にアクセスできるのか、なにからなにまで手探りだった。
先生方にアドバイスをいただきながら、「学部三年生に適切なレベルの英語の数学書」ということでなんとかかんとか候補を4つに絞り、参加者に希望を聞いてみたところ、
みんなが選んだのはハッチャーのAlgebraic Topologyだった。
アメリカで一番読まれているトポロジーの教科書、らしい。

それから、場所については、最終的には参加していただけることになった院生の方が、担当の先生の名義をお借りして理学部棟の一室を貸してくださった。
図書館のグループ学習室は毎週予約し直さなければならず、確実にとれる保証がないし、
そもそも今回のゼミは個人的な知り合いの学外からの参加者もいたので、使えない。
理学部全体の管轄の教室は勝手に入り込んで使っていても誰も文句を言わないわりに、
しっかり手続きを踏んで部屋をとろうと思うと先生を介してでないと予約がとれないし、
五限後はセキュリティが厳しくなって、入り口に鍵がかかって理学部の院生でないと入れなくなるし、先生も同席しないと教室の予約をとれない。
最近はラウンジを多目的で使えるように公開してくれているようで、今後はそこでゼミなどできるようだけれど、
私たちがゼミをはじめたときはそれもまだなかったので、院生の方が参加してくれなければ場所を取れなかったと思う。

こうしていろんな方の支えを得て教科書と場所が決まり、ハッチャーゼミはスタートした。
メンバーの中に一人、ホモロジーが大好きで自分でしっかり勉強している詳しい人がいたので(同級生のはずなのにとてもそうは思えなかった。本当にすごい)、
彼がどこをやったらいいだとかも助言してくれたし、輪読の発表も半分は彼がやってくれた。
四月の第三週からはじめ、途中一度休みをはさんだので、全12回。
2.1章を読み終え、章末の演習問題をいくつか解いて、前期ハッチャーゼミは終了した。

具体的な内容については、いずれまた書くかもしれないけれど、今回は数学的な内容ではなくゼミの企画に焦点を当てたいので割愛する。
こうして振り返ってみて思うのは、本当に多くの人に支えられたなということだ。
提案し、相談に乗ってくれた萩原先生。教科書の選び方に助言をしてくれた先生方に、部屋の名義を貸してくださった先生。
部屋の確保をしてくれた院生の方に、内容をよくわかってない幹事に代わって進行を支えてくれたメンバー。
当然、集まってくれた14人がいなかったら、一人でゼミを開くこともできなかった。
内容も、基礎的でためになるものを自分なりになんとか理解できたと思うし、
なにより、前例がない中ゼミを企画し、最後までやりきったのは達成感がある。

実は、人数が多すぎたので、14人のうちの半分はハッチャーゼミではなく別のゼミを開いていたのだけれど、もうひとつのゼミの方も含めて、参加してくれた彼らはこのゼミに何を思っただろうか。
数学的な内容でもいいし、人間的な成長でもいい。達成できたことでもいいし、達成できなかったことへの反省でもいい。
なにかしら、得たものがあると嬉しいなと思う。

最後に、初回、教科書を決める回で使った資料をおいておく。
決して完璧な幹事でもないし資料でもなかったと思うけれど、
候補になっていた他の教科書も載っているので、ゼミの企画に興味のある人は参考にしてほしい。

github.com

留学用の英語試験、TOEFL

TOEFLの結果が返ってきた。もちろんiBTの方。私がTOEFLを受けるのはこれで二回目だ。
勉強法を教えられるほど出来がいいわけじゃないし、TOEFLをマスターしてるわけでもないけど、
以前より少しTOEFLがどんなテストであるのかが見えるようになってきた気がする。

私がはじめてTOEFLを受けたのは二年前、大学一年生の時。
英語の上級クラスをとるのにスコアが必要だったから受けたのだったのか、なんとなく自分の実力を知りたくて受けたのだったか、
理由や経緯はいまいち覚えてないんだけど、でもその時の感想は覚えている。
当時の私の言葉で言うなら、
「京大入試クラスの文章に、TOEICの時間制限」
京大入試の英語の問題は、実際の論文などから引用していて、その分野を専攻していなければネイティブにとっても難しいような文章だと、受験塾の先生が言っていた。
当時の私にとって、京大入試の文章は最高峰の難易度だったし、時間制限という意味ではTOEIC以上に時間制限の厳しい英語の試験を知らなかった。
とにかく、なにをとっても今まで受けたなかで一番難しい試験。到底太刀打ちできそうにない相手。
私はその壁の高さを前に、うちひしがれるどころか、「大学を卒業する頃にはこんな難しい問題も解けるようになっているんだ!」と未来の自分の姿を想像してわくわくしていた。

そして先々週、TOEFLを二年ぶりに受けた。
今の感想は、「背は見えているのに手が届かない」だ。

私の感想を伝えるより先に、ここで一度「TOEFLとはなんなのか」を自分なりに説明しようと思う。
受ける前日に公式ガイドブックをパラパラと読んだ。
TOEFL公式ガイドブックはとても丁寧に作られていて、時間や問題数、点数配分などの形式的なところから、試験の理念、採点基準、解答例とその場合のスコアの具体例など(なんと模範解答だけでなく、部分点の例も丁寧に全て書いてある)至れり尽くせりといった感じに作られている。
TOEFLは、「アメリカの大学に留学してどれだけついて行くことができるか」を計ることを徹底している。
Reading、Listening、Speaking、Writingの4つのセクション、各30点、計120点に別れているが、
例えばListeningで使われるスキットは、学務での手続きの問い合わせのシーンだったり、先生に課題の交渉をするシーンだったり、講義の一部の抜粋だったりする。
Speakingでは、単に自分について話したり意見を述べたりするだけではなく、
友人がどの講義をとるか悩んでいるシーンを聞かされ、それに対しての自分なりのアドバイスを求められたり、
意見箱に投書された学校のシステムの改革案を読まされて、それについて友達が意見を述べているシーンを聞かされ、友達の意見を要約することを要求されたりする。
単純にRLSWの4つの能力をそれぞれ計るのではなく、現実的に想定される状況に合わせて複合的な形で実践力を問うのがTOEFLの特徴だ。
世界的なTOEFLの平均点はアジアでもアフリカでも世界中どこでも80点前後。アメリカでも85点、日本の平均点は70点。
これらはTOEFL受験者全体を母集団としているので、大学、大学院留学を目標としている高校生、大学生全体の平均値と思っていい。 アメリカの平均点が85というのは、アメリカには英語が母国語ではない移民が多くいて、そういった人たちがTOEFLを受けるメイン層だからではないかと思っている。
世界の各大学が入学の足切りとしてひいているラインは80~110点程度。
いわゆる世界ランクに名を連ね、誰でも名前を知っているような名門大学の大学院は当然のように100点以上を要求してくる。
日本人にとっては100点以上はなかなか現実的には難しく、大学院留学に関しては、研究成果などでアピールし、先生に特別に足切り以下の点数だが入学を許してもらうというパターンが多いようだ。

今回は前回と違って、時間切れで問題を全く読まないまま回答することはなかった。
わからない問題はあったが、「なにがなんだかまったくわからない」というほどわからない印象もなく、
「ああ、わかる人にはわかるんだろうなあ」「きちんとここの段落の意味をわかっていれば解けたのかも」「家に帰って辞書で調べながら時間をかければ解けるんだろうなあ」という印象だった。
背は見えているのに手が届かない。手は届かないんだけど、もう一歩頑張れば届く可能性はあるものとして、目の前にいる。そういう感じだ。
結果は84点。内訳はR21L24S19W21だ。
前回の点数ははっきり覚えていないけれど、TOEIC換算してこんなに低いのかと思った記憶があるのでおそらく50か60そこらだったと思うし、随分とこの二年間で点は伸びたと思う。
一番変わったと感じるのはリスニングだ。前回受けたときは、あまりの長さとわからなさに集中力が続かなくなって、内容なんてほとんどわかってない問題もあった。
日本語でも英語でも、意味のわからない授業はどうしてこう眠くなるんだろう、なんて思った記憶がある。
今回は、「すごい!普段の授業で使ってるリスニングの教材よりわかる!聞き取りやすいように気を使って話してくれてる!」という感動があった。
TOEFLでは、Listeningセクション以外に、SpeakingやWritingでもリスニングをする必要がある。聞き取れるかどうかが得点に与える影響は大きい。

特に必死に勉強した覚えも、TOEFL対策をしっかりやった覚えもないし、
むしろ各学期はじめには「英語も頑張るぞ!」と思うものの、学期半ばには中だるみしてきておろそかにしてしまって、後になって反省していた記憶の方が強い。
それでも、英語の授業は必ずいつもなにかとっていて、完璧ではなかったものの、宿題も出席もだいたいなんとかこなしていたし、
長期休みには機会があれば海外に行っていたし、大学の英語学習サポート機関、イングリッシュハウスのレッスンも、
試験前などで忙しくなってやめてしまったりしつつも思い出す度にちょくちょく参加したりしていたので、
自分が思うよりは勉強できていたのかなあ、と思わなくもない。
そう思う反面、思ったより頑張らなくても案外点は伸びるものだなあ、とも思ってみたり、というのが今の感想だ。
「少しでもいい。5分でいい。週に二日、英語に触れること」
これが私なりの基準だったし、この基準は一応は守ってきた(ほとんど、週一の授業とその前日の宿題という形だったけど)。

今後の課題はきっと語彙力だ。
Readingに出てくる単語の意味がわからないという意味でもそうだが、
聞いたら意味はわかるけど、SpeakingやWritingでアウトプットしようと思ったときにとっさに出てこないという単語も多い。
不格好でもいいからなにかしら伝わるような表現をしようと思えばきっとできる。
そこから一歩進むため、同じ表現の繰り返しを避け、一言で的確に伝えたいものを伝えられるようになるためには、
とっさにすぐでてくる言葉の引き出しをもっと増やさなければいけない。
今までのようにのんびり漠然と英語をやっていて、これ以上伸びるような気はあまりしない。
TOEFLピンポイントでの対策も必要になってくると思う。
84点という点は日本人平均よりは高いし、世界平均とも勝負できる。
専攻がきっちりできていれば、名門大学も可能性はあるレベルではあるかもしれない。
それでも、足切りを満たして堂々と入学するには足りないし、それは入学後他の人たちに比べて語学でハンデを背負うことになる。
語彙力は、語学力は一朝一夕に身に付くものではないが、幸いなことに学部を卒業するまでまだ一年半ある。
英語だけにかまけているわけにはいかないけれど、これからも少しずつ着実に英語を積み重ねていこうと思う。

日本マイクロソフト本社でブログ制作体験をしてきた話

日本マイクロソフト本社でブログアプリケーション制作体験をしてきた話……
というと語弊があって、別にソースをガリガリ書いたわけではない。
このイベントに参加して、用意されたものを使っただけ。

event-0429.azurewebsites.net

なんだか要素が多すぎて説明に困るイベントなのだけれど、コンテンツとしては、

するイベントといった感じだった。

私にとって新鮮だった体験を、以下の3点に絞って書いていこうと思う。

  • PaaSというものにはじめて触れたこと
  • 戸倉彩さんという方を間近で見て話すことができたこと
  • Microsoft社やその製品へのイメージが変わったこと

まずは、PaaSとはなんぞや?という話。

IaaS(Infrastructure as a Service)とPaaS(Platform as a Service)とSaaS(Software as a Service)の違いなのだけれど、
教科書には、IaaSはストレージやネットワークを提供してくれてOSなどを自分で導入できるもの、
PaaSはインフラを提供してくれて、アプリケーションをその上で動かせるもの、
SaaSはブログなどソフトウェア、あるいはアプリケーションを提供してくれるサービス、
というような説明をされる。

OSとかアプリケーションとかよくわからないって人向けに例えるならば、
土地をやるから好きに家を建てていいよ、っていうのがIaaS、
ビルを貸してやるから好きに使っていいよ、っていうのがPaaS、
フードコート作ったからお店出していいよ、っていうのがSaaS
って感じだろうか。どこから用意しないといけなくて、どこから自由にカスタマイズできるのかが違う。

私にとっては、IaaSやSaaSはWeb管の仕事やこういったブログで触っていてなじみがあったのだけれど、
正直PaaSについては教科書で読んだだけの存在で、
いまいちどういった状況で使われるものなのかピンときていなかった。

Microsoft Azureというサービスでは、IaaSとPaaSを提供していて、
DreamSparkという学生向けの無料プログラムに登録すると、PaaSの部分を無料で使えるようになる。
なんせMicrosoftが提供しているものだから、機能も充実しているし動作も安定している。
チュートリアルWordPressというブログソフトウェアを入れてみたものがこれ
いくらでもカスタマイズできる。サークルの先輩が「PHPいじればなんでもできるよ!!」と言っていた。
可能性は無限大。現実的かはさておき。

実際のところ、PaaSって使いどころは難しい気がしていて、
正直ブログを書きたいだけならWordPressなどを利用してソフトウェアから作るよりも、
こうしてはてなブログなどのSaaSを利用した方が機能も特化していて余計な管理をしなくて済んでいいと思うし、
かといってホームページを本気で作りたかったらインフラから自分で作った方が自由度が高い。

どこで使うんだろうと疑問に思ってサークルの人やら講演者さんやらに聞いてみたところ、
インフラが得意でないけどホームページをガリガリ書いて作るのはやりたいとか、
試験的な運用だったり、個人で軽く書いた小規模なアプリケーションだったりで、
インフラからガッツリ作るほどはしなくていい、とりあえず簡単に動かしたいだとか、
そういう状況で生きるものらしい。

作ったウェブアプリケーションを簡単に公開してみたいなんてことがあれば、azureを使ってみてもいいかもしれない。
ちなみに、起業する人は、起業から5年間はIaaSの方も無料で使えたりするらしい。
ちらっとみてみたところ、CentOSからUbuntuからWindowsServerから、かなりOSの選択肢も充実していて、
もし起業するのであれば、使わない手はないと思う。

導入でつまずくところはないと思うので、学生で興味がある人がいれば、下記から登録して使ってみるといいと思う。

Microsoft DreamSpark

それから、日本マイクロソフトのテクニカルエバンジェリスト、戸倉彩さんという方と話すことができたのも、
私にとって大きな収穫だった。

マイクロソフトの公式萌えキャラクターと同じ髪型と眼鏡をし、Windows10のTシャツを着ていらっしゃる戸倉さん。

素敵なTシャツを着て、楽しそうにWindows10について語る戸倉さんは、
「カリスマ性」としかいいようのない人を惹きつける魅力に満ちた方だった。

一言一言から、マーケティングだけでなく技術者としても筋金入りであろうことも伝わってくる。
こんな生き方をする人もいるのだなあ、と、見ているだけで元気をもらっているような気がした。
なんとなく未来が見えない中辛いものに耐えながら生きている人が多い中、
戸倉さんのように、全力でしたいことをしてまっすぐに生きている人がいることはとても素敵なことだと思う。

その戸倉さんが紹介してくれたのが、Windows10。
製品のソースコードを公開しはじめたり、Windows10がLinuxbashに対応すると発表したり、
最近のMicrosoftはなんだか今までと違うぞ、という空気はあったけれど、
どうやらCEOが営業出身の人から技術者出身の人に変わったのがきっかけで、
方針が変わってきたらしい。

自分や周囲が技術者だからという贔屓目を抜きにしても、
技術者にフレンドリーな経営をしていくことが結果的に企業をクリエイティブで活気あるものにするような気がする。
Microsoftは王手で王道の古株であり、新しい挑戦はあまりしないというイメージはもう古いのかもしれない。

その新しく変わろうしているMicrosoftが作ったのが、Windows10。
私はパソコン用OSだとしか思っていなかったのだけれど、戸倉さんが紹介してくれたところによると、
Windows phoneからタブレットから大型機器から、かなり多様なデバイスで使われているらしい。

これは確かに技術的には非常に重要なことだと思う。
OSが共通していれば、それぞれのデバイスごとにソフトを開発しなくても、
ひとつのソフトでいろんなデバイスに応用しやすい。
もちろん入出力装置からなにから違うので、うまく動かないこともあるだろうけれど、
そういう場合も一部の機能を追加すればよく、まったく異なる言語でいちから書き直さなければいけないということはない。

今までデバイスの数だけの手間がかかっていたものが、一回でできるというのは、
言葉で聞いて想像するよりもずっとずっと大きなことだ。
Windows10上で動くソフトウェアの開発は、きっと面白いアイデアも出てきたりして、
活発で面白いものになっていくと思う。

特に戸倉さんが推していたのは、Windows HoloLensという製品。

youtu.be

動作の安定性がどの程度なのかという問題もあるし、
ゴツいサングラスをつけなければいけないので顔が見えなくなるのも個人的には大きな課題だと思っているけれど、
SFで見るようなホログラムが現実になるために必要な第一歩であることはきっと間違いがなくて、
今日明日活躍してくれるものではないかもしれないけど、未来の可能性のワクワク感を感じさせてくれる製品だと思う。

それから、MSP(Microsoft Student Partners)というプログラムの存在を知ることができたのも、大きな収穫だったと思う。
マイクロソフトインターンシップというのは、いわゆる日本企業のインターンシップのような、
比較的短期でバイトと似たような学生向けのものではなく、
もっと社員に近い本格的な仕事で、学部生にはなかなか手が出し辛いものらしい。
MSPはもう少しいわゆる「インターンシップ」に近く、
学生と交流を持つ目的で、学生向けに作られたプログラムになっている。
それでもきっとマイクロソフトのことだから競争率は高いと思うけれど、
マイクロソフトインターンシップよりまだ手が届くものかもしれない。
応募するだけしてみる価値はあるのかな、という気はしている。