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アカデミアにいながら民間に行きたいと望むという困難

学務に、私を応援してくれる人がいる。
インターンやら留学やらに私はよく行くので、そのたびになにかと学部学務にはお世話になっている。
だから、私が海外志向であることも、おそらくは外資系希望であることもバレバレなのだと思う。
その私の、夢と呼ぶほどでもない夢を応援してくれて、それを伝えてくれた人がいた。
伝えてもらったときそのときは、こういう人もいるんだなあ、程度にしか思わなかったのだけれど、構内ですれ違って挨拶してくれたときに、この人がいてくれてよかったとほっとしたのを自覚した、という話。

あまり自覚はしていなかったけど、私は大学に行くたびにどこかで「私はここを裏切ることになる、いつかは敵になるのだ」と身構えていたのかもしれない。
私のお父さんは国立大学に勤めていて、国立大学には偏差値や給与には代えられない品格、名誉があると信じている。
倫理観のしっかりした人なので、学生の指導をするときにこの価値観を押し付けるようなことはしていないと思うけれど、こと実の娘の話となると、格の劣る民間企業には行ってほしくないらしい。
そんな家庭環境で20年以上生きてきたからか、アカデミアの人間の民間に対する軽蔑にはどうにも過敏になってしまうところがある。

今のゼミの先生も、特に民間企業への就職を応援して支援してくれる人ではない。
マスターを卒業したら就職したいと伝えたときはとくに反対もされず、いいですよ、と流されたけれど、負け犬とまで思っていなくとも、民間企業への就職を人生の成功とは間違っても思っていないだろうなとは感じる。
もし私がもっと期待される優秀な学生であれば、いいですよ、とも言われず、もったいないとか言われたのかもしれない。

そんな状況の中で、この学務の人の応援にとても救われた気がしたのだ。
もちろん、親しい友達や彼氏は私の人生の選択を尊重してくれるのだけれど、学部の違う友達が認めてくれても、理学部の校舎が私にとってアウェイでなくなるわけではない。
応援って加減が難しくて、一歩間違うと重荷になる。
私が外資系志望でなくて留学に行くだけの日系企業志望だったりしたらきっと重荷だっただろう。
これから日系企業に志望を変えるようなことがあれば実際重荷になると思う。
ただ今回に関しては間違いなく支えられた。

トビタテの選考のアドバイスに「旗を立てる」という表現があった。
自分がなにをしたいのかを明確に発信し続けていれば、そこには応援してくれる人たちが集まってくれる、と、そういう話だった。
そういう意味では、外資系に行きたいと旗を立てている私を応援してくれる人がいつか現れるのは必然ではあったのかもしれないけど、でもそれが学部の内部で、このタイミングだったことは偶然だ。

実際世の中には、この偶然を拾うことができず、民間に進むことを自分に許せずに圧力に負けてアカデミアに残り続ける人はたくさんいるだろう。
私のように偶然を拾えなかったひとは、支えがないまま一人で圧力と戦わなければならない。
むしろ、ほとんどは、周囲の期待と自分の希望を混同して、圧力に負けて自分を殺しているという自覚すらないかもれないけど。
社員に辞めることを許さない、辞めないように圧力をかける企業というのは無数に存在しているので、特段アカデミア特有の問題というわけでもないけど、それは問題でないことの免罪符にはならない。

企業と違って大学というのは、学生やポスドクたちの生き辛さは組織の業績にフィードバックされにくい。
民間ならもう少し働きやすい職場を作ることで会社も利益が出るという組織にとってのモチベーションがあるわけだけれど、大学にはそのシステムはない。
民間なら、個人と組織はお金を通じて目指すべき在り方をシェアできて、双方の利害が一致するようにお金が整えてくれるわけだけど、大学はそうなってないのだ。
失踪者や自殺者を生み出し続ける大学という組織の体質が改善されるまで、まあまず数年ではきかないだろう。
組織の改善は望めない。
個人個人が強くなるしかない。

私の人生は私ののもので、教授のものでも親のものでもない。
教授の期待、親の期待、それを裏切ったときの現実が待ち構える困難、自分の人生の選択をするときに、そういったローカルな周囲の状況は考慮する必要はない。
自分の人生をどうデザインしたら自分が幸せになれるのか。
それだけに集中して人生を描いていくべきだと思う。