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経済と人権と、「転売ってなんでだめなの?」

今回は転売の話だ。
先に今回の話の流れと結論を一言でまとめてしまうと、「確かに、転売ってよくないと思うんだけど、一般的にされている転売がよくない理由が自分にはピンとこない。でも確かに転売ってよくなさそうだよなとは思う。だから、自分なりに転売がダメな理由を考えてみた」という感じだ。
私は転売はダメだと思っているし擁護するつもりはないのだけれど、話の流れ上、一度一般的に言われる転売がダメな理由がどうしてピンとこないのかを説明していくことになるので、一見擁護しているように見える場面もあると思う。
もしかしたら、その言い方が、人によっては、読んでいてしんどいものになるかもしれない。
そういった人たちを傷つけるのは、私の望むところではないので、もしあなたがここまで読んでいて、心がざわつくようなら、このへんでブラウザバックしてほしい。
一旦閉じておいて、どうしても気になるようなら、後でよく考えて今なら読んでも大丈夫、冷静に読める、と思ってから戻ってきてほしい。

さて、本題に入ろう。
よく、「転売屋から高額でチケットを購入すると、公式のグッズを買うお金がなくなって、公式の次期制作ができなくなるため、転売屋からチケットを買うのはよくない」という主張を聞く。
これが、私はピンとこない。
転売屋からチケットを買うのはよくない。
公式にお金を入れることで次の制作につながることも確かだし、その作品を評価していて、制作した企業を応援したいなら、そうすべきだと思う。
そのどちらにも、同意できるのだけれど、果たして公式に入るお金が減るから転売から買ってはいけないというのが理由として通るかというと、それは別の問題なような気がするのだ。
例えて言うなら、寿司屋の客引きが、違法ドラッグを購入しようとしている若者に、「ドラッグを買うのにお金を使ったらうちで寿司が食えないじゃないか!」と説教をしているような、そんな違和感を感じる。
もっと言うなら、注意しているのは今回の場合寿司屋の客引きではない。
その寿司屋を贔屓にしている常連客が説教している状態だ。

現実問題として、ある程度出費を管理している人であれば、娯楽費というのは限られているし、公式のグッズと転売屋のチケットはその同じ娯楽費の枠を取り合う位置にいるとは思う。
しかし、だからといって、それは他人が口を出す問題だろうか。
それが、転売屋のチケットではなく、まっとうに商売をしている別の人であれば、例えば非公式の二次創作であれば、赤の他人が「公式に使うお金がなくなるから冬コミで二次創作買っちゃダメ」なんていうのはおせっかいだろう。
お前は私のかあちゃんか、ってな感じだ。
「公式にお金を使わないと次の制作ができないから、公式グッズを買えるようにお金は計画的に使おうね」 ならまだわかるが、転売屋のチケットピンポイントで、買うのはよくないと主張するには根拠として弱い。
転売屋のチケットだからこそダメな理由が別にあるのだ。
そうでなければ、娯楽費を公式に使わずに別のところに使ったところで、それは資本主義経済の競争のなかの勝敗の話であって、他の人が口を出す問題ではない。

転売屋のチケットだからこそダメな理由というと、きっと多くの人の頭の中に浮かんだのは、価値を生産していないことだろうと思う。
私も、少し前までは、その理由で納得していた。
つまり、今は納得していない。
考えが変わったきっかけになったのは、経済学部に進んだ高校の友達との会話だ。
私は、経済的価値を生産してない仕事全般を、悪いと思ってはいなかったけれど、好きではなかった。
価値を生産せずにズルするみたいにお金を手に入れて、その人たちは楽しいんだろうか、と思っていた。
転売屋も、先物取引や株取引で儲けているトレーダーもだ。
株に関しては、それが会社の資本金となり、会社の生産活動に活かされていることは知っている。
しかし、それは最初に買った人がずっと持っていても変わらない。
だから、何日とか何時間の単位で取引を続け、上澄みをこそげるようにどこからかお金を生み出してくるトレーダーは価値を生み出していないと思っていた。

友達と議論を続けた末、ようやく私が納得した答えは、そういったトレーダーが存在しなければ、ほしい時にものを買えないし、売りたいときに売れない、という話だった。
株も野菜もなにもかも、私達は買いたいときに買えて、売りたいときに売れることが当たり前だと思っている。
それができない世界なんて想像できないだろう。
でも、もしトレーダーとなるような人たちが一人もいなければ、買いたいときに買えないということが実際に起こりうるのだ。
架空の世界でつかみ所のない取引を続けている人たちがいるおかげで、そういった受給の変動は価格の変動として緩衝され、受け止められ、ものが少ない時でも本気で買いたければ額さえ出せば買える状態になっている。
買えない、というのは極端すぎてピンとこないかもしれないから、それよりはまだ現実的な、トレーダーの人数が十分でなかった場合を説明したほうがわかりやすいかもしれない。
トレーダーの人数が少なかった場合は、価格の変動がもっと大きくなり、キャベツが10000円だったり、みかんが一個5円だったりして、安定しなくなるのだと思う。
近年は、株の短期間の上下幅がどんどん小さくなる傾向にあるらしい。
それも、FXなどの普及で株取引が消費者に身近なものになり、トレーダーの人数が増えてきたからなのだろう。

つまり、一見経済的価値を創造していないようにみえる、買ってきて売るを繰り返す人たちでも、資本主義社会にとって非常に重要な役割を担っている。
これは転売チケットについても同じことが言えると思う。
軽い気持ちで応募した人もどうしてもほしくて応募した人も、得られる権利はまったく同じ、一口分の抽選券だ。
本来なら、チケットに大した価値を感じていない人にも大きな価値を感じている人にも平等に届くはずのチケットを、転売屋はチケットにほんとに価値を感じている人の元に届けるという役割を持っている。

まあ、そもそも、「価値を生み出してないのにズルして儲けてる」なんてやっかみにすぎなくて、それで人に迷惑をかけていないのであれば規制する理由として不十分だと私は思うので、こんなややこしい説明をしてまで、転売屋が生み出す価値を説明する必要もなかったかもしれない。
いずれにせよ、転売屋だからこそダメな理由としては、「価値を生み出していない」は却下だ。

じゃあなんでだめなんだろう、とわからずにいた私に、とある方がこう教えてくれた。

悪意が混じるのが簡単だからですね 100限のグッズ、100個買って50倍の値で売るのも含めてそう呼ばれてるので…… 経済学でいう市場の失敗……といえなくもない

市場の失敗、というのは経済学の用語だ。
私は経済学には詳しくないので、この言葉自体の理解が正しいかは自信がないので、自分の言葉で説明していこうと思う。
基本的には資本主義は、需要と供給が釣り合う位置価格で売り買いをすると、社会全体の幸福度が最大になるという理念に基づいている。
自然のままに任せておけば、売り手はより安く、より良いものを売ろうと競争し、買い手はより高い値段で買えるひとがものを手にすることができる。
この競争よりって、より欲しい人のもとにほしいものが届き、製品の開発は進み、社会は発展していく、という理屈だ。
しかし、需要と供給に任せていては、最適な価格でバランスされない場合というケースが存在する。

例えば、消しゴムを作っている企業がいくつかあったとしよう。
その中のほとんどは、消しゴムのみを作っている専門店だったが、ひとつだけ、鉛筆や他の文房具も作っている王手の企業があったとする。
この王手の企業が、一時的に消しゴムの値段を赤字レベルまで下げる。
この企業は他の分野で儲けを出している大きな企業なので、そんな価格設定が可能だが、他の企業にはそれは真似できないので、潰れていってしまう。
結果的に残るのはこの王手企業だけになる。
そうなれば、消費者は他に選択肢がないので、この企業の消しゴムを買うしかなく、この王手企業はいくら粗悪な品を高い値段で売っても買い手がつく。
これではよろしくない。
だから、消費者には選択の自由を、常に複数の選択肢があることを、法律で保証してやる必要がある、という理屈だ。
このように、自然な競争に任せるのではなく、政府の介入が必要になってくるケースというのが存在する。

今のは代表的な例だが、今回の転売に近い別のケースも紹介しよう。
大金持ちが、石油を先物取引でガバっと買い占めてしまう。
しかし、石油はプラスチックにもガソリンにも使う、生活必需品どころか社会のインフラを支える重要な資源だ。
消費者(この場合、運送業者やプラスチック製品を製造する業者も含む)は、高いから、ないからじゃあ入りませんというわけにはいかず、大金持ちの言い値で石油を買うしかない。
これも、市場に任せっきりにしておいたら社会の幸福が最大にならず、政府の介入を必要とする例だ。

もし、転売屋の手にするチケットの枚数が、チケット全体の枚数に大して十分多ければ、こういった現象と同じ現象が起こると考えられる。
そもそも、チケットを抽選で売ろうというのは、多くの人にチャンスを与えたいという企業の戦略だ。
その意図は、もしかしたら新参を取り入れる機会を儲けたいということなのかもしれないし、もしかしたら印象をよくしたいということなのかもしれないし、理由は様々だが、転売屋の存在は、この企業の戦略を壊している。
戦略を壊して得た結果が、健全な競争であれば、企業の戦略を選ぶ権利と転売屋の仕事をする権利どちらが勝つのかはわたしは法律家でも経済学徒でもないのでよくわからない。
しかし、その結果が不健全な値段の釣り上がりであれば、権利とかとは別の問題として、資本主義社会の市場に悪影響を与える存在と言うことはできるだろう。
転売屋が市場に悪影響をもたらす存在であることを根拠に、彼らを市場から追い出そうという主張や活動をするのであれば、私も納得できるし、実際その程度が無視できないぐらい甚だしいと政府等第三者が認めれば、法律等による規制の形で介入があるだろう。

ある特定の職業を指して、それはよくないと、あそこからはものを買うなと運動をするのは、結構デリケートな問題だ。
人には職業の自由があるし、合理的な根拠がなければ、それは差別や、仕事を選ぶ人権や購入する権利を妨げる行為になりかねない。
「この仕事は社会から追い出すべきだ」「これを購入することは悪いことだ」という主張は、慎重にしなければならず、経済や法律の専門家の結論という根拠が必要だ。
この件に関しては、政府に、あるいは専門家に、「こういう事情で困っているんです」と理解を訴えていく形がやはり適切で、「転売からチケットを買うのはよくないことだ」と他の消費者向けに消費活動を制限するような主張をするのは、そういった主張が当然で正当だと認められていくのは問題なんじゃないかと思う。
セキュリティとプライバシーの権利の対立なんて話もよく聞くが、ある人の権利と他者の権利がぶつかりあうというのはよくある話で、この件も消費者の正当な価格で購入する権利と転売屋の職業の権利や消費者のほしいのもを購入する権利がぶつかりあっている事例だろう。
素人が安易にどっちかのみを見て結論付けるには複雑すぎる。

また、残念なことに、転売屋を批判する人の中には、在日と転売を結びつけて語る人も多い。
たとえ統計的事実がどうであろうと、人種で職業を、あるいは職業で人種を決めつける発言をすることは人種差別だと私は思う。
内心でどう思っていても、思うだけなら誰にもそれを文句を言う権利はない。
同じ考えの友達同士で語り合うことも問題にはならないだろう。
ただ、それを発言するのが問題なのだ。
差別発言をインターネットで公に配信してしまう心ないひとがいること、それが問題視されずに、当たり前と受け止められてしまっていることは、悲しいことだと思う。

転売屋が社会的問題になるということもあるだろう。
しかし、たとえそれが問題であることが事実だったとしても、言い方には気をつけてほしいと思うのだ。
転売屋はダメだという主張を見た時、自分がそう主張するとき、それが人種差別になってしまっていないか、他人の職業を選ぶ権利を奪うような言葉遣いになっていないか気をつけて、個人の感情や推測と正確な事実を分けて考えるよう意識してほしいなと思う。

参考

この記事を書いた後見つけたものだけれど、フェアな視点から分析していてとてもわかりやすいと思った。

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