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「日本人」の境界線

「日本人」という言葉が指す範囲について、あなたは考えたことがあるだろうか。

「日本人」という言葉は非常に曖昧だ。

日本国籍」は法によって明確に定義されているが、「日本人」という言葉はもっと複雑なものだ。

第二子の誕生に合わせ、中国から日本へやってきた夫婦が帰化し、日本国籍を取得したら、「日本人」だろうか。

日本人と外国人の間に生まれたハーフで、日本国籍を持っていたら、「日本人」だろうか。

あるいは、文脈によっては、日本で日本人夫婦の間に生まれても、幼少期に海外で育った帰国子女なら「日本人」には含まれないかもしれない。

私は日本生まれ日本育ちだが、学校で出会った友達には、そういった「日本人」と「外国人」の境界線上にいる友達が何人かいた。

弟が生まれるときに中国から日本へ移り帰化した、20日(はつか)がわからず「にじゅうにち」と言ってしまう女の子。

私の小学校に転校してきたその子とは、よく一緒に下校して、その子の家でポケモンごっこをして遊んだ。

生まれる前に両親が中国から日本へ移ってきた、日本語が完璧で中国語がカタコトな中国国籍の男子。

サザンが大好きな彼とは、一時期恋人関係だったけれど、そのころの思い出はどれもよくも悪くも鮮烈で、一生忘れられそうにない。

日本語も韓国語も上手に話す、韓国国籍の男子。

彼は数学がとてもよくできて、他の人たちが数学の話を避けようとする中、彼は数少ない私の数学話に付き合ってくれる友達だった。

中国国籍で、日本語は完璧だが、日本人に馴染めず留学生たちとよく一緒にいる男の子。

彼は留学生コミュニティ一の人気者で、一度会って話しただけですぐに仲良くなって、その後留学生の寮で開かれるパーティに招いてくれた。

他にも、英会話教室のイギリス人やアメリカ人の先生、帰国子女、留学生なども含めたら、日本で出会った「日本人」の境界線上にいる人はもっとたくさんいる。

その誰もが私にとって大切な人だ。

そして、彼らの多くは、「日本人」という言葉の壁を経験している。

彼らは「日本人」には入れないことがままある。

「日本人は勤勉だ」などと言うとき、彼らの存在はそこに意識されていないのではないだろうか。

高校生ぐらいまで、私は、あるいは私の高校の友達達は、その問題を意識していなかった。

中国国籍でも、韓国国籍でも、私たちにとって一介の同級生でしかなかった。

意識するようになったのは大学に入ってからだ。

ひとつだけ、高校生のときに、ほんの少しだけその壁を感じた思い出がある。

クラスにほとんど友達のいなかった私と、一人だけ一緒にお弁当を食べてくれる物好きのクラスメートがいたのだけれど、

彼女がある日いつものように一緒にお弁当を食べているときにこう言ったのだ。

「中国人と付き合ってるって恥ずかしくないの?私には無理」

不思議と、怒りとか悲しみとか、そういう黒い感情はなかった。

「まあ、この子ならこう言うかもなあ」

と妙に納得した気分だった。

中国人だから付き合ってて恥ずかしいなんて発想がまるでなかったから、ただただ単純にそんな考えもあるのか、と感心して、

国籍がなんであろうと同じ高校生同士というぬるま湯に浸かっていたところに、冷や水を浴びせられたような、現実に引き戻されたような、そんな気がした。

でも、高校生のときに壁を感じたのはそれっきりだった。

多分、私の高校は人種とかそういう問題を気にしない人が多い高校だったんだろう。

人種問題に詳しく理解があるというよりは、大多数はただ単純に子供のころからそういう環境だったから、それが普通、と受け入れているだけだった気がする。

大学は、いろんな高校から、いろんな考えの人が来ていた。

大学で出会った、中国から生まれる前に移住してきた人の高校は、私の高校とは全然様子が違っていたようだった。

境遇だけなら、私の元カレとまったく同じだ。

日本語が堪能で、中国語は若干怪しい。

まだ帰化しておらず、国籍は中国のままで、中国名をそのまま名乗っている。

彼に、私の元カレと同じだ、と言ったら、それはそれはびっくりしていた。

中国人と付き合うやつなんているのか、と。

その言葉は高校のときに友達に浴びせられたものと、意味は一緒だったけど、でもそこにこもる気持ちは全然違っていた。

中国人には恋愛なんて許されないんじゃなかったのか、そんな普通の他の人と同じように暮らしている中国人がいるのか、羨ましい、とか、そんな気持ちだったんだと思う。

きっと、彼の生きてきた人生の中で、日本に住んでいる中国人というのは常に特別な存在で、好奇や奇異や嫌悪やいろんな目線を向けられる存在で、同じ人間として扱われるものではなかったのだろう。

中国語が母語ではない彼は、中国に帰っても疎外感を感じるらしい。

自分は中国人なのか、日本人なのか。

どっちでありたいのかすら曖昧で、自分が帰属する集団がわからないというのは、さぞストレスだったことだろうと思う。

私も、長らく男子にも女子にも入れなかったから、わかる。

所属がわからない、自分が何者なのかわからないという、ただそれだけのことでも、少しずつ毒のように溜まっていく。

社会は、日本人か外国人か、男か女か、必ずどちらかに所属するものだと思っている。

女なら、女友達とおしゃべりをしていればいい。

男なら、男友達とゲームかスポーツをしていればいい。

そうすれば、友達ができて、ひとりぼっちにならなくて済んで、困った時にも友達に助けてもらえる。

そんな風に、人間をふたつに分けて、「こうしておけば大丈夫」が作られている。

こっちに所属しているなら、こうしておけばうまくいく。

あっちに所属しているなら、ああしておけばうまくいく。

じゃあこっちともあっちとも思えない自分はどうしたらいいの。

おしゃべりは好きじゃないけど、身体的には女の私はどうしたらいいの。

ことあるごとに、身じろぐ度に、ちょっとずつ、少しずつ、首が締まって息が詰まっていく。

思えば、私の高校も、私や私の友達が国籍も「日本人」も「外国人」も気にしない人たちだっただけで、気にしている人は気にしていたのかもしれない。

私の高校には、私の友達だったふたり以外にも、韓国国籍の人はいたし、もしかしたら、その人の周りの友達は、人間を「日本人」と「外国人」に分けて考えていて、ずっと息が苦しかったのかもしれない。

今の私は、ASDという名前を、所属する集団を見つけたし、大学で出会った彼も留学生という名前を見つけたのだろう。

ねえ。

「日本人のために働きたい」とか、「日本人なら美しい言葉を使え」とか。

そういうことを言うとき、その視界に「日本人」の境界線上の人間は映っていますか。

悪いことを言ってるとは思わない。

その人の人生の中で蓄積された経験が、そういう言葉を生み出しているのだろうから。

でも、もし、できるなら、「他人/日本語話者のために働きたい」とか、「汚い言葉は避けた方が人に好かれるよ」とか、そんな風に、「日本人」という言葉を使わない言い方に変えてもらえませんか。

それだけで、きっとたくさんの境界線上の人たちが救われる。