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「表現の自由」という言葉の使い方を見直したい

ヘイトスピーチとか、エロ漫画の規制とかの話題で必ず出る「表現の自由」という言葉の使い方が気になって仕方がない。

そもそも、歴史的経緯を考えるなら、表現の自由の意味は、「政府を批判しても投獄されない権利」としての側面が強いはずだ。
表現の自由っていうのは、政府が個人の権利を保障するものであって、個人が個人を言葉で傷つけて暴力を振るう権利を認めるものじゃなかったはずではないだろうか。

憲法の解釈に関しては、プログラム規定説だかなんだか私は詳しくないけど、個人の解釈にすぎず、私の解釈が普遍的に正しいわけではないかもしれないが、
たとえ憲法が個人対個人間の表現の自由を規定するものだったとしても、少なくとも、ヘイトスピーチを批判する自由、エロ漫画を批判する自由というのもまた同時に同じ程度に尊重しなければおかしい。

ヘイトスピーチをしたやつに法律的に罰金/懲役を」という話が出たときに「そこまでやっては表現の自由の権利を侵害してしまう」と反論が出るのはまだ納得がいく。
しかし、どうにも見ていると、そこまで言ってないのに「ヘイトスピーチがよくない。やめよう」に対して「表現の自由の侵害だ」と反論している人がたくさんいると感じる。
ヘイトスピーチはよくない」という発言をすることもまた表現の自由だ。

私が思うに、「表現の自由」という言葉の意味は、「言葉での暴力に、物理的な暴力で報いを与えるのはやめよう」「言葉の暴力への自衛は言葉までにとどめよう」「言葉の暴力に対して法律で自衛したら過剰防衛になってしまう」ということなのではないだろうか。

以前にも書いたかもしれないが、見て見ぬふりというのは消極的ないじめっ子側への加担だ。
「自分は表現の自由を尊重するからヘイトスピーチになにも文句を言うつもりはないし、他人の文句を言う権利を認めない」というのは、一見フェアな姿勢に思えるのかもしれないが、そうではない。
恐怖に抗い、ようやく立ち上がって怯えながらも声を挙げたマイノリティを、言葉の暴力で再び支配し、黙らせようという行為への消極的な加担だ。
ましてや「表現の自由でしょ」と口に出して彼らを攻撃するのなら、積極的な加担になる。
表現の自由でしょ」と口に出す人たちは、そのつもりはないのかもしれないが、実質的にはそれは弱い立場のものを怯えさせ、恐怖で支配する結果になっている。

表現の自由」という言葉を振りかざす人たちがしたいことは、本当にそれなのか。
それこそ、マイノリティの表現の自由を奪っているじゃないか。
そこまで全て理解した上であえて怯えさせるために「表現の自由」という言葉を使っているのなら、私から言えることはなにもないが、本当にしたかったことはそうじゃないんじゃないのか。
君たちが言いたかったことは「自分の不愉快だ。ヘイトスピーチはなくなってほしいと思う。でも表現の自由は尊重しなければならないものだから、法律で規制するわけにはいかないんだ」じゃないのか。
表現の自由があるから、規制だとか、言うなとか言えない、というのは大いにわかる。
だからといって、そこだけ言うと、ヘイトスピーチの肩をもち、ヘイトスピーチに不満をもつ人を攻撃しているような形になってしまうのだ。
「自分も気持ち的には許しがたい。でも、表現の自由があるから規制はできない」
それでいいじゃないか。
どうして表現の自由があるからって不満を持ってはいけない、不満を表現してはいけない、ということになる。
規制は求めないが悲しい、減ってほしい、なくなってほしい。
そういう姿勢でいればいいじゃないか。

表現の自由」という権利自体は私も素晴らしいものだと思う。
それは多くの人々が血を流して獲得した人権のうちの大切な一部だ。
だからこそ、その言葉は、正しい意味で、言葉を物理的な暴力や法律で封じられている人たちを助けるために使ってほしいと思う。
共謀罪なんていうものも最近話題になっていたが、ああいったものこそ、本来「表現の自由」の批判を向けられるべき存在ではないのだろうか。