コンパクトでない空間

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「好きなことを仕事に」の絶対視はかえって古くないか

ここ数年で、「私たちは、仕事や勉強を苦痛でなければならないものだと教え込まれてきた。そんなのは嘘っぱちだ。好きなことを仕事にする、幸せなことじゃないか。その方がモチベーションも上がっていい仕事ができる」というような意見を目にする機会が増えてきたように思う。
私が子供のころから、私の両親は「勉強を好きになる教育が大切だ、嫌なものを嫌々やらせて身につくものか」と主張していたし、私にとってはこの意見は特に真新しいものではないのだけれど、私の世代で、最近大人になってからこの意見に感化された日本人は多いのではないだろうか。

私はこの動きを否定したいわけではない。
むしろ賛成だ。
その一方で、就活をしている友達から、「好きじゃない業界を志望するなんて……」という声もよく聞く気がするのだ。
私の周囲で就活をしている友達なんていったら、エンジニアばかりなので、エンジニア特有なのかもしれないが。
「仕事を好きでやってる人間こそが天才で、そうでない凡人は天才に敵わない」
という意見も、それはそれで人を苦しめてきている。
そんな気がする。

好きこそものの上手なれ、とは確かに一面では納得がいく話で、好きだからいつまでもやってられる、頭に入ってくる、結果的に上達する、そんな面は確かにあると思う。
ただ、それは、「得意である」ということの、ひとつの在り方にすぎない、とも思うのだ。
スポーツでも、ゲームでも、芸術でも、上手さというのは必ず一つではない。
色の使い方がうまい人、リアルな質感を表現するのがうまい人、表情を描くのがうまい人、いろいろなうまさがあって、誰一人として、どんな天才でも、そのすべてのうまさをひとつの絵に詰め込むことなどできない。
仕事を好きじゃなくても、生まれつき手先が器用で上手に絵が描けるかもしれないし、好きじゃないからこそ冷静に流行りを分析して盛り込めるかもしれない。
業務内容は好きじゃなくても、人間関係の雰囲気が好きで、安心できる人間関係の中にいるときこそ本領を発揮できる人かもしれない。
べつに、上手い、の在り方は好きであることだけじゃない。

サザン・オールスターズのTSUNAMIも、大瀧詠一君は天然色も、それぞれのアーティストを代表するヒット曲だが、話に聞く限りどうも彼らはこれらの曲を好きで作ったわけじゃないらしいじゃないか。
特にクリエイター分野においては、「好き」は追求し続けるとくいっぱぐれることはよくある。
待遇を得るために流行りに乗ることは、低俗でも魂を売っているわけでもない。
人間だれもが当たり前にもっている人生の選択権を行使しているだけで、誰にもケチをつける権利なんてない。

好きな人間が、寝る間も惜しんで没頭して仕上げた仕事こそ、常に最高の価値を持つ、というのはあまりに息苦しすぎないか。
最近ようやく、働き方改革という動きがおこり、寝る間も惜しんで仕事をすること、人生において仕事を第一に置くことを社員に要求することが見直されつつあるところだ。
「仕事は苦しいものだ」という価値観同様、「仕事を好きな人間こそ本物だ」という価値観も、同時にこの働き方改革の中で、脱していくべき呪いじゃないか。
好きなことでも仕事にしていいし、好きじゃないことでも仕事にしていい。
自分の人生は、自分が納得できるように自分で選んでいい。
そういう社会を私たちは目指していたんじゃなかったのか。