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コンパクトでない空間

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肯定と称賛の違い

twitterで最近ちょこちょこしていた話を、こっちにもtogetter的な感じにまとめておこうと思います。
あくまで私がここで使う言葉としての「肯定」と「称賛」であり、便宜上そう名付けて区別しているだけで、他のひとは異なる意味で「肯定」と「称賛」という言葉を使うこともあるでしょう。
というか、私自身、別の場面では別の意味でこれらの言葉を使います。
ここでいう称賛のことを肯定と呼ぶ人を責めるつもりは毛頭ないことを先に断っておきます。

「友だちが誉めても誉めても卑屈なことを言うばかりで変わってくれないので疲れてきた」とか、「誉められても全然嬉しいと思えない。自分は感情が麻痺しているのだろうか」ということってありますよね。
これは、私の言葉で言うと、「肯定」と「称賛」は違うもので、肯定を求めているのに称賛を与えると、こういう現象が起こるのだということです。
逆に、肯定には満足していても、称賛に飢えている人もいます。

キーワードとしては、肯定は「好き」「いいよ」、称賛は「すごい」「えらい」という風に思うと分かりやすいと思います。
あくまでキーワードであって、必ずではないですが。

最近はやっていた、「肯定ペンギンの赤ちゃん」シリーズありますよね。
「GW明けなのに午前中に起きて偉いね!」みたいなことを皇帝ペンギンの赤ちゃんが言ってくれるアレです。
あれは私に言わせると称賛です。
肯定なら、「頑張って午前中に起きたんだね。あなたのそういう頑張り屋なところ好きだよ」になります。
あるいは、「GW明けだと午後まで寝ちゃうんだね。そういう肩の力抜けててマイペースなところ好きだよ」とかでしょうか。
もちろん頑張り屋な結果午後まで寝ちゃう人とかもいるので、そういう人に対しては「頑張り屋なところ、好きだよ」になります。

「肯定」のポイント、一番重要になる芯、あるいは本質は、その人の「アイデンティティを受け入れる」ことにあります。
つまり、その人のことを十分に知って理解していることが大前提なのです。
その人が寝坊した理由が、時間に縛られずに気ままに過ごす人だからなのか、前日の夜頑張りすぎて疲れて寝てしまう人なのか理解している必要があります。
受け入れさえすれば、つまり責めずに存在していることを許せばそれだけで十分で、必ずしもプラスにとらえて誉める必要はありません。
誉めても構いませんが。
ここでいうアイデンティティ、というのは、子供のころから今までずっと変わらず、これからもきっと変わらないだろうと本人が思っているものです。
「変わらないだろうと本人が思っている」というだけで、本当に変わらないとは限りません。
実際アイデンティティはその人の人生の中で刻々と形を変えていきます。
高校までの私は、自分は絵を描く生き物だと思っていましたし、一生絵を描き続けると思っていましたが、今は言うほど絵を描いてません。

自己肯定感が低い人たち、肯定に飢えている人たちというのは、自分は世の中に受け入れられない、存在してはいけないものだと思っています。
社会のバグ、出来損ない、欠陥品、そんな言葉でよく表現される感覚です。
そういう人に、「そんなことないよ、存在していいよ」と伝えることが肯定です。

コンプレックスという言葉も、自己肯定感の低さと仲のいい言葉です。
一重だとか、トロいとか、あるいはもっと精神的な部分で、いつもつい人を傷つけることを言ってしまうとか。
そういう部分を「それを嫌う人がいても、その人との相性の問題であって、あなたが悪いわけじゃない」「私はそれは気にならない」と伝えることが肯定です。

「絵が上手」とか「点数が良くてすごい」とか「ちゃんと頑張っていて偉い」とかが、肯定にはなっていないことはわかっていただけたでしょうか。
称賛も称賛で大切なことです。
称賛と肯定のどちらが欠けても人間は生きていけません。
しかし、称賛は十分得られているのに肯定が片手落ちで苦しんでいる人に称賛を与えても、問題は解決しないのです。
自己肯定感の低さは本人にとっても、それを支えようとする周囲にとっても辛いもの。
この記事が解決のきっかけになったらいいなと思います。