twitterで最近ちょこちょこしていた話を、こっちにもtogetter的な感じにまとめておこうと思います。
あくまで私がここで使う言葉としての「肯定」と「称賛」であり、便宜上そう名付けて区別しているだけで、他のひとは異なる意味で「肯定」と「称賛」という言葉を使うこともあるでしょう。
というか、私自身、別の場面では別の意味でこれらの言葉を使います。
ここでいう称賛のことを肯定と呼ぶ人を責めるつもりは毛頭ないことを先に断っておきます。
称賛と肯定というのは異なる概念で、称賛かつ肯定もあれば、称賛していないが肯定している、もあり、称賛しているが肯定していない、もあり、称賛していないし肯定していない、もある
— 七星慧斗(Saho) (@kate_ccs) 2017年5月11日
そう考えると肯定がほしい人間に称賛を与えてもざるに水をかけるがごとくすり抜けていくのは道理だよね。
— 七星慧斗(Saho) (@kate_ccs) 2017年5月11日
紙はあるがペンがなくて困ってる人に紙を渡してるっていうか。
ここで言う称賛は「能力が高い」とか「いい結果を残した」とか「道徳的な行動をした」そういうことを誉められるやつで、肯定というのは「なにを思っても感じるがままに感じていいよ」「あなたらしさが好きだよ」みたいなやつ
— 七星慧斗(Saho) (@kate_ccs) 2017年5月11日
自己肯定感が低い人が求めているのは文字通り、その人の生まれもっての性質そのもの、存在全ての「肯定」であって、能力や成果を誉められても自己肯定感が育たないのは当たり前なんだけど、なかなかその違い、齟齬が伝わらなくてお互いしんどくなるんだよね https://t.co/OSsd10oSq7
— 七星慧斗(Saho) (@kate_ccs) 2017年5月15日
自己肯定感が低い人には、「好き」「いいよ」を伝えるべきで、「すごい」「えらい」はまた別のものだ、それも伝えた方がいいことではあるけど、自己肯定感が低くて喘いでいる人が飢えているのはそれではない、ということを覚えておこうね!!
— 七星慧斗(Saho) (@kate_ccs) 2017年5月15日
友達と話してて気づいたけど、称賛は「あなたはの今の行動/状態は社会適応的だ」っていう意味を持ち、これは肯定では与えることができないものなんだな……
— 七星慧斗(Saho) (@kate_ccs) 2017年5月15日
今が社会適応的だったとしても、本人が自分の欠点を隠してるつもりだった場合は、その欠点がバレても受け入れてもらえるとは限らなくて、それを「(社会が受け入れるかはともかく)自分は受け入れるよ」というメッセージが肯定
— 七星慧斗(Saho) (@kate_ccs) 2017年5月15日
「友だちが誉めても誉めても卑屈なことを言うばかりで変わってくれないので疲れてきた」とか、「誉められても全然嬉しいと思えない。自分は感情が麻痺しているのだろうか」ということってありますよね。
これは、私の言葉で言うと、「肯定」と「称賛」は違うもので、肯定を求めているのに称賛を与えると、こういう現象が起こるのだということです。
逆に、肯定には満足していても、称賛に飢えている人もいます。
キーワードとしては、肯定は「好き」「いいよ」、称賛は「すごい」「えらい」という風に思うと分かりやすいと思います。
あくまでキーワードであって、必ずではないですが。
最近はやっていた、「肯定ペンギンの赤ちゃん」シリーズありますよね。
「GW明けなのに午前中に起きて偉いね!」みたいなことを皇帝ペンギンの赤ちゃんが言ってくれるアレです。
あれは私に言わせると称賛です。
肯定なら、「頑張って午前中に起きたんだね。あなたのそういう頑張り屋なところ好きだよ」になります。
あるいは、「GW明けだと午後まで寝ちゃうんだね。そういう肩の力抜けててマイペースなところ好きだよ」とかでしょうか。
もちろん頑張り屋な結果午後まで寝ちゃう人とかもいるので、そういう人に対しては「頑張り屋なところ、好きだよ」になります。
「肯定」のポイント、一番重要になる芯、あるいは本質は、その人の「アイデンティティを受け入れる」ことにあります。
つまり、その人のことを十分に知って理解していることが大前提なのです。
その人が寝坊した理由が、時間に縛られずに気ままに過ごす人だからなのか、前日の夜頑張りすぎて疲れて寝てしまう人なのか理解している必要があります。
受け入れさえすれば、つまり責めずに存在していることを許せばそれだけで十分で、必ずしもプラスにとらえて誉める必要はありません。
誉めても構いませんが。
ここでいうアイデンティティ、というのは、子供のころから今までずっと変わらず、これからもきっと変わらないだろうと本人が思っているものです。
「変わらないだろうと本人が思っている」というだけで、本当に変わらないとは限りません。
実際アイデンティティはその人の人生の中で刻々と形を変えていきます。
高校までの私は、自分は絵を描く生き物だと思っていましたし、一生絵を描き続けると思っていましたが、今は言うほど絵を描いてません。
自己肯定感が低い人たち、肯定に飢えている人たちというのは、自分は世の中に受け入れられない、存在してはいけないものだと思っています。
社会のバグ、出来損ない、欠陥品、そんな言葉でよく表現される感覚です。
そういう人に、「そんなことないよ、存在していいよ」と伝えることが肯定です。
コンプレックスという言葉も、自己肯定感の低さと仲のいい言葉です。
一重だとか、トロいとか、あるいはもっと精神的な部分で、いつもつい人を傷つけることを言ってしまうとか。
そういう部分を「それを嫌う人がいても、その人との相性の問題であって、あなたが悪いわけじゃない」「私はそれは気にならない」と伝えることが肯定です。
「絵が上手」とか「点数が良くてすごい」とか「ちゃんと頑張っていて偉い」とかが、肯定にはなっていないことはわかっていただけたでしょうか。
称賛も称賛で大切なことです。
称賛と肯定のどちらが欠けても人間は生きていけません。
しかし、称賛は十分得られているのに肯定が片手落ちで苦しんでいる人に称賛を与えても、問題は解決しないのです。
自己肯定感の低さは本人にとっても、それを支えようとする周囲にとっても辛いもの。
この記事が解決のきっかけになったらいいなと思います。